平成9年度修士論文

「文学作品の読解過程における基礎的研究」

〜テクストを形成する能動的読み〜

 
 
大阪教育大学大学院 修士課程 国語教育専攻 国語学専修

学籍番号 959202 北尾友美

指導教官 野浪正隆


目次

0.はじめに
1.先行研究の整理
  1.1.文学の記号論
      1.1.1.文学解釈における約束事
      1.1.2.コミュニケーション行為としての文学
      1.1.3.「文学性」
  1.2.「開いた」メッセージ
      1.2.1.「ファーブラ」と「筋」
      1.2.2.テクストがもつ「空所」
  1.3.読者の役割
      1.3.1.読者という構成概念
      1.3.2.テクストに対する信頼感
2.テクスト分析
  2.1.予想活動
  2.2.テクスト分析───書き出しの機能
  2.3.テクスト分析───ブランクと仕掛け
3.能動的読みに関する調査
  3.1.調査の実施
      3.1.1.調査実施日時
      3.1.2.調査用紙
  3.2.調査結果
      3.2.1.能動的読みの実際例
      3.2.2.受動的読みの実際例
4.考察結果
  4.1.仮説の検証
4.2.能動的読みが生み出される実態
5.おわりに

脚注
参考文献一覧

0.はじめに

 ウナギ文のような文は、コンテクストなしでその意味内容を相手に伝えることは難しい。何の文脈もなしに「僕はウナギだ」というと、「Iam an eel.」と解釈されがちである。しかし「何を食べる?」に続く「僕はウナギだ」であれば、「 I will have an eel.」という意味内容が、相手に容易に伝わる。このように、文脈は文を理解する上で重要なものである。そして文は文脈というつながりによって文章というまとまりになりうると考える。言い換えると文章は文脈によってひとつのまとまりとして成り立つと考える。
 しかしこの文脈とはいったい何なのか。

 たとえば、次の2文における文脈、文どうしのつながり、はどう考えられるのか。

@何とか卒論を提出できた今、一年前の自分をふりかえってみると冷や汗がでる思いがする。
A当時、偶然手にした本におもしろおかしく紹介されている内容にひかれて、卒論のテーマを決めてしまった。
(弥島康朗「卒論をおえて」 『国語表現ゼミナール報告7』)

 @文とA文は卒論に関することが述べられており、何らかの関係があると思われる。が、この2文並んでいるだけでは文と文のつながりがはっきりしない。ただ同じテーマについて述べられている文を、二つ並べただけで、文章というには何か違和感が起こる。
 しかし次の2文ではどうか。

B何とか卒論を提出できた今、一年前の自分をふりかえってみると冷や汗がでる思いがする。
C当時、偶然手にした本におもしろおかしく紹介されている内容にひかれて、卒論のテーマを決めてしまった感が強いからである。
 C文に「からである」が伴うことによって、C文はB文の原因、理由を述べているということが明らかになる。

 @とAでは文どうしのつながりがはっきりしないと述べたが、「からである」という句なしでは本当にこの2文を関係づけることは無理なのだろうか。
Dエレベーターに乗って、とうのてっぺんに近い第三てんぼう台に上がると、ひやっとする、すずしい風がふいていました。
E明るい緑につつまれたパリの町が、遠くまではっきり見えます。
(前川康男「エッフェルとうの足音」『小学国語4上』大阪書籍 平成五年二月十日)
 D文、E文ではこの並び方によってのみ、2文のつながりがわかる。これが、E、Dという並びであれば、
E明るい緑につつまれたパリの町が、遠くまではっきり見えます。
Dエレベーターに乗って、とうのてっぺんに近い第三てんぼう台に上がると、ひやっとする、すずしい風がふいていました。
2文のつながりははっきりしなくなる。D、Eという並びによってのみ「第三展望台からパリの町並みがよく見える。」という関係付けを行うことができる。この文脈をとらえるという作業は言語力、つまり語彙力や文法力といったものとは異なる能力で処理しているのではないかと考える。文脈展開機能が文や文章にあるのではなく、「読み」を行う際に、読み手の側に文脈展開していく能力が求められているのではないだろうか。
 母国語話者は無意識のうちに同化吸収した言語体系についての知識を基準にして、ちゃんとした文を産出し理解する能力を備えている。チョムスキーは言語を理解するための出発点がその能力にあることを示したのであった。カラーはこの言語観が文学の理解にたいしてもつ意味を提起する。
(『ガイドブック現代文学理論』ラマーン・セルデン著 栗原裕訳 1989.7 大修館書店)
 上に挙げたラマーン・セルデンが述べるように、無意識に読み手の側は、文脈を捉えて、いくつかの文を一つの意味のまとまりに、再構成している。これは、非母国語で考えてみると、より明確になる。次の文を考えてみる。
F Now, I am gonna go pinch a loaf.
  When I come back, this is all gone, all right ?
 (トイレに行く。帰ってきたら、全部片づいている。いいか。)
(「ショーシャンクの空に」監督・脚本:フランク・ダラボン 松竹富士;'94・アメリカ)
 Fの文章は文法的にも語彙的にも高度な英語でない。それぞれの一文の意味内容は容易に理解できる。しかし文脈を展開し、この文章全体の意味することは何かを考えるのは、また異なる文章力(適当なことばではないが、仮に用いる)が必要となる。
 Fは映画の台詞にあったもので、
G私が便所から戻るまでに片づけろ。
と翻訳されていた。

 このようにいくつかの文を、文脈によって、一つの単位として解釈していく作業は、読み手の側が、主体的に行っていると考える。FをGと解釈するには、読み手の主体性に頼るところが大きいと考えられる。このいくつかの文を一つの単位として、解釈する作業はさらに、文章を一つの意味のまとまりとして、解釈する作業につながるものと考える。
 従って、この文脈を捉えて、一つの単位として解釈していく作業が、具体的にはどういった活動なのか考えていくことは、文章を読むという行為の姿を明らかにすることへ、つながっていくと考える。本論では、この一つの単位として解釈していく作業を明らかにし、読むとはどういうことなのか、その実態に近づきたいと考える。

 さて、この解釈している一つの単位とは、ある物事の一様を理解するために必要な情報のまとまりである。この解釈される情報には、文上に明示される言語情報と、言外の含みとして読み手が読みとる非言語情報との2つがある。この非言語情報を、言語情報に関係づけて、積み重ねていくことで、文脈を展開している。そして、関係付けと積み重ねによる、読みという、意味を生産していく過程が、具体的にはどのような活動によって成り立っているのか、明らかにしていこうとしているのだ。
 非言語情報と言っても、書き手によって明示する必要がなく省略された情報と、意識的に隠された情報とがある。読むという行為には、この両方の情報を区別する作業も含まれていると考え、双方の関係についても扱う必要があると考える。
 また、非言語情報の獲得は、読み手がどこまで非言語情報を要求しつつ、読み進めて行くかによって、情報の得られ方も異なってくる。非言語情報が明らかにされないまま結末に向かうテクストほど、読み手の負担は重くなる。先のFなどがその例である。Fの訳文を見ると、3文は並び方が違ったり、2文に欠けたりすると、生み出される意味は異なってくるので、この順序を保ち、3文がそろってはじめて、Gの意味を生み出すことが可能である、といえる。
 しかしこの可能性は、読み手により、その度合いが異なる。このFの情報だけでG文の形に関係づけることができる読み手と、Fの情報だけでは、関係づけるに至らない読みをする読み手がいると予想される。では、この差は何なのか。理想的な読み手はどのような「読み」をして、非言語情報を獲得していくのか。
 この非言語情報を獲得し、言語情報と関係づけて、文脈を展開し、意味を生成していくことが、読むということであると考え、この非言語情報の獲得の過程に注目し、読みの姿を明らかにしていこうと思う。過程を見ていくことで、明らかになると考える。

1.先行研究の整理

1.1.文学の記号論

1.1.1.文学解釈における約束事

 ロバート・スコールズ*1は、テクストを解釈するということは、自分の解釈したテクストを生産することであるという。つまり、テクストの内容は、自分自身がテクストを主体的に解釈しない限り、得ることはできないものであり、物体としてあるテクストから、新たな解釈のテクストを生産して、初めて、読むという行為が実現するのである。したがって、解釈する人の数だけのテクストが生産され、同じ解釈はありえないということになる。
 しかし、その一方で、自分勝手に解釈しているわけではなく、われわれはあるルールに従って解釈を行っている。そのルールとは何なのか。彼は教育的立場から、このルールについて述べている。
 現在のさまざまの型の批評は、多くの点で意見の相違はあるものの、テクストを産出するにはすでにそこにあるルールに従う必要があるという考え方を、例外なく認めている。つまり、英語を学びさえすれば、英語でどんなテクストでも作る力がつくという具合にはいかないということだ。言語を習得するとは複雑な文化環境にもぐりこむということである。それ自体がひとつの精神的な傷になることもあるだろうし、いずれにしても、知覚や認識に大きな影響がでるはずである。さらにある言語の内側でテクストを作るには、第二のレベルの文化制約を───特定の型の言説に許されている文体上の可能性をとりしきっているコードを受け容れなくてはならない。これにしても、ひとつの力を得るために自由を犠牲にすることなのだから、精神的な傷として機能するかもしれない。
 ─略─
 特定の言説を───文学の解釈もそのひとつ───作り出す力を得るには、その言説様式のもつ約束事を受け容れる必要がある。私が今提起しているのは、要するに、文学を学ぶ学生がそれをなしとげる最善の方法は何であるかという問題なのである。
 われわれが現在とっている教育方式が、この点についての知識と合致していないことは、歴然としている。ただ、テクストを読めば、あとは内省と直感によって解釈文を作れると言わんばかりのやり方をしているのだから。だが、実は、もっとはっきりと判っているのだ。内省も直感もすでにして陳述の産物だということが。(この点でも、実に多種多様な、相互対立をくり返す現代批評の各派が意見の一致をみる)。われわれは教えられたように読み、何かをさがせと言われるまでその何かが見えない。そしてまた───つねにそうなるし、やむをえないことでもあるが───すでに出会ったことのある書き方をモデルにして書いてしまう。批評と詩のいずれの言説様式を考えてみても、「創造する」能力はいきなり与えられるものではなく、約束事をすっかり飲みこんで、即興が可能になり、最後にもう一度自由がとり戻せるようになったときこそ、自分のものになるのである。
 われわれはこの約束事をどこまで熟知しているのだろうか、また、どこまで自由な読みを可能にしているのだろうか。その現状を知るには限りなく膨大な調査を行わなければならない。それよりも、この約束事が飲み込めていないために、どんな読みの行為がなされているのか、また、約束事を習得した自由な読みとは、具体的にどんな行為なのか、といった、読みの実態が本論においての課題である。

1.1.2.コミュニケーション行為としての文学

 それでは、この課題解明は、文学研究においてどのような立場に立つものになるのだろうか。ロバート・スコールズ*2は記号論の立場から次のように述べる。
 私がまとめの原理として使おうとしているのが記号論の枠組みだからである。これはロマーン・ヤコブソンによって広められた、コミュニケーション行為の明快な記述を基にした枠組みである。この記述は図式化することもできるのであって、ヤコブソンはそこですべてのコミュニケーション行為に含まれる六つの要素を区別している。文学のテクストの読解を説明するために、その図式に手を加えると、次の図のようになる。

 今日のさまざまの型の批評理論は、少なくとも第一段階としては、この図の中のどの要素を強調するかによって整理することができる。すなわち、文学のテクストの読解を過不足のないコミュニケーション行為と見るならば、各々の批評型には読解過程を前にしていずれかの要素を───他の要素を犠牲にして───重視する傾向が見られる。さらに、その重視された要素に対してとる態度の違いとか、要素間の関係のつけ方とかによって、批評の型はいちだんと細かく分れる。
─略─
 目下、作者中心の批評と読者中心の批評をおす立場が活発である。私が作者中心の批評というのは、テクストにおいて作者のもつ役割を重視し、テクストの意味を解く鍵として作者の意図を見いだそうとする解釈のことである。
─略─
 もう一方の極には、読者に力点をおき、テクストに対する読者の反応を重視する批評がある。この型の批評の提唱者たちは、読者が意味を作るのであり、その心理的欲求に応じてテクストから意味を作りだす権利があるとする。この説では、秩序よりも無秩序が重視されるようにみえる。
─略─
 しかしながら、文学の解釈を教えるときには、教育的な企図をすべて投げだしたような読者重視からくる無秩序と、創造力を窒息させかねない作者重視の権威主義との間に、何らかの中間地点を見いだせるはずである。
 それにあたるものが確かにある。われわれはヤコブソンの図式の中央部に、その変種をいくつか見つけられそうである。
 彼は、テクスト中心の理論と、読者中心の理論の間にある「中間地点」として、構造主義者によるコード重視の理論を、記号論的な文学研究の方法として、あげている。そして、そこでは、著作は「作品」ではなく、「テクスト」と捉えられている。
 これに対してテクストは開かれた、未完の、自己充足性を欠くものとしてある。念のために言うならば、テクストとはいずれかの特定の著作の中にある特質ではなくて、そのような著作なり、他の記号の結合体をみるときのひとつの見方にすぎない。同じことばの組み合わせを作品ともテクストともみることができるのだ。しかしながらテクストとしての著作は、ある人物が(または、ある人々が)、人間の歴史のある特定の時点において、特定の言説様式を使って生みだしたものであり、個々の読者が自分に利用できる文法、意味、文化の各コードを使って行なう解釈行為からその意味を得るのだと理解されねばならない。ひとつのテクストはつねに他のさまざまのテクストを反映しており、他の可能性をおしのける選択行為の結果としてある。
 本論では、主に記号論の立場をとり、「テクスト」という考え方から、考察していきたいが、スコールズの言う、読み手がテクストを解釈する際に用いる文化コード、というものを範疇に入れることはできない。読み手一人一人が、これまで生きてきた環境のすべてを、調査の範囲に入れなければならないからである。けれども、文法、意味のコードについては、できるだけ扱っていきたいと思う。また、テクスト中心の理論と読者中心の理論の両者を取り入れ、その相互の関わりをも考えたいと思う。

 では、このテクスト、コード、読者といった記号論的要素は、文学研究において、どう扱っていけばいいのだろうか。
 まず、記号論的に考えて、文学とは何なのかということに触れておきたい。

1.1.3.「文学性」

 ロバート・スコールズ*3は「文学」を次のように、定義する。
 私としては、「文学」ということばは、反復または復元の可能なコミュニケーション行為のうちのあるものをさすのに使うべきであると考えている。
―略―
 「反復または復元の可能な」という以上、文学と呼ばれる何かはある持続性を持つことが必要になる。つまりそれは、書かれたテクストとか、録音された声とか映画のリールとか、あるいは諺、冗談、神話、叙事詩のように口で伝達される何かのかたちをとるということである。口頭形式の場合には、普通同一のテクストが復元されるのではなく、同一であると確認できる構造が復元されるわけであって───「同一の」冗談や叙事詩が異なることばで語られる場合がそれにあたる───そこにある「同一性」によって、これらを先に定義した文学の枠内にいれることができる。反復または復元のできない話とか行為の成果とかは(たとえば忘れられた冗談や紛失した手稿)もともとは文学と言えたとしても、文学とは現在も入手のできる成果からなると考えるとすれば、もはや文学の一部とはみなしえない。  
─略─
 さきほどの文学の定義の中で使った「行為」ということばは、反復または復元の可能な発話が、感覚をもつある存在がある意図をもってなした営為であることを要求している。単なるミスは文学とは言えないのだ。しかし他の誰かがそのミスを演じてみせれば、それも文学になり得る。人間の身振りや発話のすべてを、意図的に他の発話の中にくみ込むことによって、文学にすることができる。
 そして、彼はこの「反復または復元の可能なコミュニケーション行為」の一つに、書くという行為があり、これが基本的なフィクション形式だと考えている。書くことは反復または復元可能な状態にするために保存するだけでなく、感覚を通して直接に触れることのできる素材を、他の媒体に翻訳することにもなるという。
 文学を他の発話行為と区別すると、彼の言うような定義付けができるのであろう。しかし、私は「反復または復元可能なコミュニケーション行為」という意義よりも、文学が文学らしくなりえる「感覚をもつある存在がある意図をもってなした営為であること」という意義を強調したい。この文学らしさこそが、文学テクストを読む際に、われわれの大前提となるからだ。この「文学らしさ」を、彼は「文学性」として、取り上げている。
 「文学的な」ものとは、コミュニケーション行為の中心となる機能のすべてを(読者の役割も含めて)変形する特質のことであると考えてみればよいのである───となると、話はまたロマーン・ヤコブソンに戻ってくる。
 ヤコブソンの図式を通してよく知られるようになったコミュニケーション行為の要素とは、送り手、受け手、接触、メッセージ、コード、コンテクストの六つである。彼の考えによると、ある言語表現を文学的なものにする美的機能は、メッセージのかたちそのものを変形する点に求められる。文学的な発話はそれ自身の形式的構造を強調するので、それによって、そうではない発話と区別できる。この強調があると、われわれとしてはその発話を、ある種の密度と不透明性をもつ構造化された対象と考えざるを得なくなる。それは、われわれの考えを何らかのコンテクストとか行為とかに直接つなぐための透明な媒体ではなくなる。それ自体として観想すべき実体となる。この考えと密接な関連をもつものは他にいくつもあって、I・A・リチャーズや新批評家たちの考えがそうである。最終的にはこれは、美的な対象は目的性をもたないとするカント的な想定をふまえていることになる。
 たしかにこれはあるところまでは有効な考え方であるのだが、私としては、いくつかの理由から反対せざるを得ない。まず、第一に、この考え方は散文小説や戯曲よりも詩に、特に定型性のつよい詩によくあてはまるということがある。第二に、この考え方をとると、文学性を「芸術」と呼ばれる無目的の行為のひとつのあり方とはせず、コミュニケーションのひとつの要素とすることによって得られるものの多くを捨てることになる。
─略─
その場合には、文学を芸術の要素の卑俗化したものと見るのではなくて、コミュニケーションの諸要素が洗練され、複雑化したものとみることがまず必要になってくる。
─略─
 可能なかぎり単純化して言うと、コミュニケーションを構成する六つの要素のうちどれかひとつがその単純性を失い、多層性か欺瞞性をもつようになると、われわれはその発話の中に文学性を感じとると言うことができる。まず、いくつかのもっとも簡単な例から考えてみよう。ある発話を作った人間とそれを口にする人間の間にズレがあると感じた場合に何が起こるか、誰でもよく知っている。われわれはそういうときには、そのことばは作者の「ペルソナ」のことばであるという言い方をする。つまり「ペルソナ」ということばが暗示する通り、作者は仮面をかぶっていると考えるのである。あるコミュニケーション行為がそれを作った人間と口にする人間との違いを感じさせるときには、必ずわれわれの文学能力が発動されるのである。
 コミュニケーション行為において、六つの要素のうちどれかひとつが単純性を失い、多層性か欺瞞性をもつようになると、文学性を帯びてくる。その変化が極めて複雑な要素が、メッセージである。アイロニー、曖昧さ、パラドックなどが、複雑に多義性、欺瞞性を帯びたメッセージである。また、コンテクストが文学性を帯びることについては、次のように述べる。
 文学性をもたない中性的なコンテクストは具体的で、現象的で、現前するということになる。つまり、所与のメッセージの送り手、受け手の双方にとってそのコンテクストは現前するのである。この意味でのコンテクストは現にそこにあって、双方に知覚でき、なるたけ記号論的なコード化を含まず、観念というよりもものに近い。
 文学性を帯びたコンテクストとは、メッセージの送り手、受け手の間で、「不在」であったり、「記号論的」であったり、「抽象的」であったりするというのだ。ということは、書物としての文学作品は、フィクションの空間に存在する世界であるため、常に「不在」なコンテクストを伴うと言える。そのため、メッセージの受け手である読み手は、不在なコンテクストを、現前するコンテクストにするために、フィクションの空間に自ら入り込まなければならない。不在なコンテクストを介したメッセージを、現前するコンテクストを介してメッセージに置き換えなければならない。ということは、文学性を帯びたテクストほど、受け手の仕事量が多くなると言える。文学作品を読む読み手は、他のコミュニケーション行為の受け手よりも、はるかに負担の多い仕事をしなければならない。書き手の意図でもって、複雑に成立した文学作品においては、読み手が作品に身を寄せて、主体性にテクストと向き合わなければならない。
 そして、また、文学性を感じるのは、受け手である読み手である。六つの要素のいずれかが変化したと認識できなければ、文学として、読まれることはない。ということは、やはり、テクストは読み手に読まれて初めて、文学として現実化する。読み手の主体性があって文学が成立しうるのだ。従って、ヤーコブソンのコミュニケーションの図式は、読者中心の関係図に変形していくことになる。
 ラマーン・セルデン*4は、文学性について、次のように説明する。
 文学の言述がそれ以外の言述と異なるのは「メッセージへの傾斜」を持っているところであると、ヤーコブソンは考えていた。
─略─
 しかし、もし形式主義を拒絶し、読者あるいは享受者の展望を採用するなら、ヤーコブソンの図の位置関係全体が変わる。この角度から見ると、詩は読まれるまで、真の実在性を持たないと言うことができる。その意味は読者によって論じられるしかないのだ。われわれが解釈の相異を来すのは、われわれの読み方が異なるからである。ほかならぬ読者コード(それに則ってメッセージが書かれる)を適用するのであり、それによってそうでなかったらただ潜在的に有意味であるしかないものを現実化するのである。
─略─
 受信者は完全に定式化された意味を受動的に受容する存在ではなくて、意味を生み出すことに能動的に行為する存在である。しかし、この場合、受信者の仕事がきわめて単純になされるのは、メッセージが完全に閉じられた体系内で述べられているからである。
 読み手により、文学作品が現実化されるのだが、一方的に、読み手の主体性に頼っているわけではないようである。テクスト内のメッセージの開かれ方が、読み手の主体性にも影響を与える。読み手のテクストを現実化していく行為は、つまり意味を生産していく行為は、メッセージがどれだけ開いているかによって、複雑さを帯びてくるようである。開かれたメッセージ、閉じたメッセージとはいったい何なのか、それによって、読み手の意味生産過程はどう複雑になっていくのか、次の節で考えてみたい。

1.2.「開いた」メッセージ

1.2.1.「ファーブラ」と「筋」

 二〇世紀に入って、文学理論は読者中心の理論が強調されるようになる。そこでは、文学、それ自体は、実在性をもたない、ただ潜在的に有意味なものとされる。それが読み手によって読まれ解釈されることによって、はじめて意味を持った現実のものとなるという。
 ラマーン・セルデン*5は次のように述べる。
 このように見ると、受信者は完全に定式化された意味を受動的に受容する存在ではなくて、意味を生み出すことに能動的に行為する存在である。しかし、この場合、受信者の仕事がきわめて単純になされるのは、メッセージが完全に閉じられた体系内で述べられているからである。
 「閉じた」メッセージであれば、読み手は容易に意味を産出でき、メッセージをただ受け取っている。しかし、完全に「閉じた」メッセージ、「開いた」メッセージというものが存在しないことは明らかである。どのメッセージも、多かれ少なかれ、両方の性格をもっている。そして、文学におけるメッセージは、ほとんどの場合、「開いた」メッセージに近い状態で、読み手の前に出されると考えられる。
 では、この「開いた」、「閉じた」メッセージとは、いったい何なのだろうか。
 ウンベルト・エーコ*6は、ファーブラという概念を用いて、説明する。「ファーブラ」とは、「筋」と対立する概念で、次のように規定されている。
 ファーブラとは、物語の基本図式、行動の倫理、登場人物たちの統辞法、出来事の時間的に秩序づけられた進行のことだ。それは一連の人間行動というのでもなければ、無機的対象に関する一連の出来事にかかわるのでもなく、観念にかかわるのでもない。これに対して筋とは、実際に語られるがまま、表層に現われるがままのストーリー、時間的な移動もあれば、先走りに後戻り(つまり予想とフラッシュバック)、描写あり、脱線あり、挿話的な考察あり、といったストーリーのこと。ひとつの物語テクストにおいて、筋は言述構造と同一視される。しかしながら筋を、言述構造にもとづいて読者が試みる最初の綜合、一連のより分析的なマクロ命題として理解することもできる。
 このファーブラが、読み手の行う予想可能なマクロ命題に対して、閉じている、開いているという問題が、開いたメッセージか、閉じたメッセージかという問題を明らかにすることになるようだ。エーコは次のような図を立てる。図(a)は閉ざされたファーブラを表わし、図(b)は多分に図式的なかたちで開かれたファーブラを表している。


図(a)は、閉ざされたファーブラを表す。
 蓋然性の離接のそれぞれにおいて、読者は思い切ってさまざまな仮説を立てることができる。言述構造が読者を、捨てるべき仮説の方へと意地悪く差し向けることも排除しきれないが、ひとつの、それもただひとつのものだけが、よい仮説であるのは明らかだ。ファーブラは、その時間軸にそって顕在化され配置されるにつれて、先取りされたことどもを検証し、それが語ろうとする事態に対応しないことどもを排除する。
─略─
 このタイプのファーブラは、それが(最後には)いかなる選択肢も許容せず、可能なことどものめまいを除き去るかぎりにおいて、閉ざされている。(ファーブラの)世界は、あるがままのものなのだ。
 読み手は、読解過程において、ファーブラの展開に対して、後続の状態を予想しなければならない。予想するとは、相次ぐ諸状態を先取りして、さまざまな仮説を立てることである。読み手は、ファーブラを展開させていく中で、これら仮説を検証し、ただ一つの正答となる仮説に、縛り込んでいく。最終的に、辿り着くファーブラの展開のかたちは一つしかないということになる。これが、閉ざされたファーブラである。
 これに対して、図(b)は開かれたファーブラを表す。
 その図は、図式的であるため、ファーブラの最終状態での開かれを示すが、もっと細かい分節された(それほど樹木的でなく、もっとリゾーム的な)図ならば、一歩ごとにこれらの開かれを生成させるストーリーを示すことができるだろう。
─略─
 この種のファーブラは、最後にさまざまな予想的可能性を開いてくれ、そのそれぞれの可能性がストーリー全体を(なんらかのテクスト相互的シナリオと協和しつつ)整合的なものとしうるのだ。さもなければ、いかなる可能性も、ひとつの整合的なストーリーを再構成できない。テクストはといえば、それはそこなわれず、ファーブラの最終状態について断を下さない。テクストは、そのいくつかのファーブラを自力で作り上げられるほどに、共同作業的なモデル読者を予想するのだ。
 最後に様々な予想的可能性を開いてくれ、そのぞれぞれの可能性がストーリー全体を(何らかのテクスト相互的シナリオと協和しつつ)整合的なものとなしうるのだ。さもなければ、いかなる可能性も、ひとつの整合的なストーリーを再構成できない。テクストはといえば、それはそこなわれず、ファーブラの最終状態について断を下さない。テクストは、そのいくつかのファーブラを自力で作り上げられるほどに、共同作業的なモデル読者を想像するのだ。
 開かれたファーブラにおいては、正答となりうる仮説が、想定できない。極端に言えば、存在しないのだ。いくつかの仮説が最後まで可能性を持ち続ける。ということは、立てた仮説を検証し、最終的な方向へと仮説を立てていっても、その展開されたファーブラのかたちは、いく通りにも作られる。いく通りにも枝分かれしたファーブラがあり、ある読み手は、ある枝を広げていくが、ある読み手は、違う枝を広げていく。読み手によって、さまざまな枝が、伸びていき、出来上がったファーブラが辿り着く先も、それぞれに異なる。

 このようなファーブラの形成の違いが、開かれているメッセージなのか、閉ざされているメッセージなのか、ということを決めていくのではないかと考える。つまり、閉ざされたメッセージにおいては、最終的に出来上がったファーブラのかたちが、書き手によってあらかじめ、想定されているので、読み手は単純にファーブラを作り、メッセージを得ることができる。しかし、多くの文学作品は、開かれたメッセージの状態に近いわけで、読み手のファーブラを展開していく作業は、単純には行われない。

1.2.2.テクストがもつ「空所」

 なぜ、文学作品の多くは、開かれたメッセージ、つまりファーブラの展開が単純ではないのだろうか。書き手が、読み手に期待するファーブラが想定されていないとは、一体どういうことなのか。

 この問題を、受容理論を用いて考えてみる。鍛冶哲郎氏*7は受容理論に次のように、説明している。
 もちろん読者は、文章、テクストの指示に従っているだけではありません。読んでいる最中に意識することはあまりないかも知れませんが、自分自身の知識、自分の属する文化と時代のコードや規範を動員しつつ文意をとらえようとしているはずです。しかし、事実や出来事の記述や伝達、意見や判断の表明を行おうとするテクストでは語や文の意味および相互の関連は確定されているのが普通です。読む者に情報や意見が正確に伝わらなくてはなりません。しかも受け手によって違う内容が伝わるようでは困ります。ですからこの種のテクストでは、読者の自由な想像が介在する余地はできる限り生じないように工夫されています。
 文学テクストの場合はどうでしょう。芸術作品においては、Unbestimmtheitsstelle(無規定箇所)が随所に散りばめられている、この無規定箇所を埋めながら、読者は作品をKonkretisation(具体化)する、とポーランドの哲学者ロマン・インガルデンは言っています。このインガルデンの考え方を修正して取り入れ、独自のRezeptionstheorie(受容理論)を展開したのがヴォルフガング・イーザー(Wolfgang Iser)です。インガルデンの説では副次的な意義しか与えられていなかった無規定箇所がテクストと読者とのInteraktion(相互作用)を始動させ継続させる要の位置に浮上します。読者はテクストから一定の規制を受けつつ、Leerstelle(空白箇所)を想像力を働かせ次々に埋めながら、関係が規定されていない各部分を相互に関連づけてひとつの意味を構成するのです。当然のことながら、個々人によって、あるいは同じ人物であっても時間的間隔をおけば、各部分の関連づけの仕方や各部分の意味づけに違いが生じますから、構成される意味は一定ではありえません。つまりテクストがもつ意味のポテンシャルのうちのひとつを、読者という行為は実現するのです。したがって唯一正しい具体化、解釈は、イーザーの理論では存在しません。存在するのは異なる読みです。
 受け手に正確にメッセージを伝えなければならないテクストは、閉ざされたメッセージを持つが、文学テクストの類は、送り手である書き手が、明確にメッセージを想定していない。正確に伝えようとするメッセージが想定されておらず、受け手である読み手は、メッセージを自由に現実化できる。受容理論においては、読み手はさまざまな読みを実現できる。ということは、開かれたメッセージにおいて、ひとつの決まったファーブラが存在しないことは、この受容理論で説明できそうである。
 ヴォルフガング・イーザー*8はテクストと読者の関係について次のように述べる。
 ここで第一に問題となるのは、テクスト全体は決して一時にとらえることができないという事実である。この点、テクストは物と違う。物は一般にその全体を眺めることができるか、少なくとも全体を想定してみることができる。ところが、テクストという〈対象〉は、読書の連続したさまざまな相を通してしか想像することができない。われわれは事物に対しては、その外におり、テクストに対しては、いつもその中にいる。従って、テクストと読者の関係は、事物と観察者との関係とは全く異なる。主体−客体関係とは違って、読者は自分がとらえようとするものの内部で、遠近法の視点をとりながら移動して行く。視点の移動によって対象をとらえねばならないところが、虚構テクストの特徴といえる。
―省略―
 テクストにおいては、どの文の相関体もなんらかの欠落部分(空所)をもっているために、次の相関体の予測を生み出し、また他方、先行する文が生み出した期待を充足する遡及的部分をもつことにより、前の文の背景となる地平を作り出す。従って、読書はどの瞬間をとっても、予覚と保有との弁証法ということができる。その過程では、まだ空白ではあるが充足をまつ未来地平が、充足はされたものの次第に影が薄くなっていく過去地平へと順次移行していく。つまり、読者の視点の移動は、つねにテクストの二種類の内部地平を開きながら両者を融合していく。この過程は、先にも述べたように、テクスト全体が一挙にとらえられないために、必然的に成立する。だが、通常の知覚行為と比較すると、不利としか思えなかったことが、じつは、読書過程の中でテクストの内部地平を絶えず細分化しては融合し、美的対象を生み出す一種の理解行為の特徴であることが明らかとなる。テクスト内の相関体相互の作用を確定するために、読者が依拠できる準拠枠はなんら与えられていないわけであるから、読書をするうちに生じる地平の変化は、構成行為になって行く。こうした構成行為は、伝達がもはや既存のコードによる規制をうけない場合に、必ず呼び起こされ、また自らまとまりを作り出す行為であるために、生産的な理解となる。
 彼が言うように、テクストは、線条的なものである限り、空所を持たざるを得ない。一度にすべてのメッセージを伝えることは不可能であり、断片的にしか、伝達できないからである。そして、読み手は視点を動かしながら、事物を順次積み重ね、全体像を捉えていくしかない。そのために、読み手は、空所に対して予想活動を行い、つねにその時点において可能な修正を繰り返すことになる。
 さらに、ラマーン・セルデン*9は、受容理論を受け入れ、次のように述べる。
 われわれは人物と事件の記憶にもとづいて、精神のなかにある種の期待を抱くけれども、テクストのなかを通過しながら期待はたえず修正され、記憶は変形される。読みながら把握するのは一連の移り変わる観点にほかならず、あらゆる地点で固定した十分に意味を持ったものであるわけではない。
―省略―
 テクストから立ち現れるさまざまの観点のあいだの矛盾を解消する。あるいは、さまざまの観点のあいだのギャップをさまざまに埋める。それによって、読者はテクストを自身の意識のうちに取り込み、それを自身の経験とする。テクストがことばを繰り広げ、読者がそれにもとづいて意味を現実化するときに、読者自身の経験がその過程になんらかの参加をするのであろうと思われる。読者の既存の意識がある種の内部調整を施さなければならないのは、読みが行われているときにテクストが提示する異質な観点を受容し加工するためである。テクストの部分的に不確定の要素を受容し、処理し、実感した結果として、読者自身の世界観が修正されるかもしれない。こういう可能性を先の状況は生み出す。われわれは読むことによって何かを学ぶことがあるのだ! イーザーのことばを用いれば、読むという行為は「いまだ定式化されざるものを定式化する機会をわれわれに与える」のである。
 このように考えていくと、開かれたメッセージは、読み手に対して、空所の充足活動、さらに、予想活動を複雑に要求している。そして読み手の側も、この複雑化した予想活動を含め、テクスト生産、意味生産を複雑に行っていく。
 本論で明らかにしようとするのは、この予想活動とは何か、ということに焦点を絞ることになるだろう。この予想活動は、具体的な作業として、どんな作業なのか、仮説を立て、それを検証していく。
 また、セルデンが言うように、この予想活動には、読み手の経験が作用する。読み手はテクストの中にいる限り、テクストが明示する情報のみで、空所を充足することはできない。従って、読み手の中に前もって用意されている、コードや、コンテクストを用いて、空所を充足していくのだが、その際、どのコードやコンテクストを用いればよいのかということは、読み手の経験が大きく作用するであろう。そして、この予想活動が、さらに新たな経験として、読み手の中に取り込まれていく。読みという行為は、こうして、読み手の中に多くの経験として、積み重ねられ、その度に、新たな読みを成立させていく。従って、読み手によって、さまざまな読みの行為が、作り出されている。
 ここで、私は、このさまざまに存在する読みの行為自体を、類別しようとするのではなく、読みの行為において果たされる、読み手の作業、役割を考えていきたい。読み手がそれぞれに作り上げる意味を生産するまでの過程において、そこで行われる作業には、何らかの規則的なものがあるのではないかと考えるのだ。この規則的な読み手の役割が十分に果たされた読みが、「能動的読み」となって、テクスト生産を行っていくと考える。

 次の章で、読者の役割を考えながら、この予測活動についての仮説を立てていく。

1.3.読者の役割

1.3.1.読者という構成概念

 仮説を立てる前に、もう少し読者の役割というものを、考えていく。ウンベルト・エーコ*10による説明をあげる。
 受信者は常に、彼が出会う言葉ごとに、いわば辞書を開き、諸辞項の相互的機能を文のコンテクストにおいて認知するべく、先在する一連の統辞規則に依拠することのできる(かならずしも経験的でない)操作者として要請されている。そうであればこそ、あらゆるメッセージは、たとえそれが発信者にしか知られていない言語で発せられようとも、受信者の側での文法能力を要請するというのである───ただし同じ発信者により、可能な言語解釈は存在せず、せいぜい情緒的な衝突と言語外的な示唆しか存在しないと想定される言語状況は除くとして。 
─略─
 しかしテクストは他の表現から、それがより複雑であるという理由で区別される。その複雑さの主要な動機となるのは、まさにそれが言われていないことを織り込まれているからだ(Ducrot,1972参照)。
 「言われていない」とは表層において表現のレベルで表示されていないことを意味する。しかしまさにこの言われていないことこそ、内容の顕在化のレベルで顕在化されねばならないものなのだ。そしてこの点でテクストは、他のどのようなメッセージよりも決然と、読者の側の能動的で意識的な共同作業の動きを要求する。
─略─
 したがってテクストには充填されるべき空白箇所、隙間が織り込まれていて、テクストの発信者はそれらの空白箇所や隙間が埋められることを予想し、それらを二つの理由により空白のまま残したのである。まずなによりもテクストとは怠惰な(あるいは経済的な)装置だからだ。それは受信者によって導入される意味の剰余価値の上にたって生きる。そしてきわめて些細な場合とか、極度に教育的配慮を施される場合や極度に抑圧的な場合にのみ、テクストは冗長さといよいよ細かくなる規定とによって複雑化し、極限においては、通常の会話規則が侵犯されるまでになる。第二の理由として、テクストは、たとえそれが通常は一義性にみあうだけの余白によって解釈されるのを望むとしても、教育的機能から美的機能に移るにつれて、読者に解釈の主導権をゆだねようとするからである。テクストは何者かに助けられて機能しようとするわけだ。
─略─
 しかしすぐにでも言わなければならないのは、テクストは、それ自身の具体的な伝達能力に不可欠なだけでなく、それ自身の記号作用の潜在能力にとっても不可欠な条件として、それ自身の受信者を要請するということだ。いいかえれば、テクストは、それを顕在化する何者かに向けて発信される───たとえこの何者かが具体的かつ経験的に存在することが期待されない(あるいは望まれない)としても。
 読者の役割は、テクストを顕在化することであり、発信者である作者は、顕在化する受信者である読者に向けて、テクストを送っている。この伝達が成立しなくとも、テクストはすでに、作者から発信されており、読者に受信されるのを持つ状態にある。そして、この受信が、読むという、複雑な作業を伴った行為であり、この作業が実現するかどうかは、読者にかかっている。
 ここで、テクストはすでに発信されたものだと考えると、発信者である作者は、受信者である読者が現れる前に、テクストを送信している。しかし、テクストを送るためには、読者が存在しないとしても、とにかく読者を想定して、コミュニケーション行為が成立すると仮定して、テクストを作り、発信する。ということは、そこには、作者が想定するモデル読者が、実際の読者とは別に存在する。

 それではこのモデル読者とは、どういったものなのか。ここでいう、モデル読者と作家の関係について、彼は次のように述べる。
 テクストは読者の共同作業を自らの顕在化の条件として要請する。次のように言い換えたほうがよいかもしれない。テクストとは、その解釈の運命が自らの生成メカニズムに属するはずの所産なのだと。つまりテクストを生成させるとは、他者の動きの予想が組み込まれた戦略を顕在化させることを意味するのだ
─略─
 そのテクスト戦略を組織するために、作者は、彼が用いる表現に内容を付与する、一連の能力(「コードの認識」というよりもっと広い表現)にかかわらねばならない。彼は、自分がかかわる能力の総体が、その読者がかかわるのと同じであると想定しなければならないのだ。したがって彼は、作者たる自分が考えていたとおりに、テクストの顕在化に共同作業しうるモデル読者を予想するだろう。このモデル読者は、作者が生成〔テクストの〕においてふるまったのと同じように、解釈においてふるまいうるものと予想されるだろう。
─略─
 作者は一方で、そのモデル読者の能力を前提としながらも、他方で、それを創設してもいる。
─略─
 したがって、自らのモデル読者を予想することは、それが存在すると「希望する」ことを意味するだけでなく、テクストに自らのモデル読者を構成するよう仕向けることをも意味するのだ。テクストは能力に依拠するだけでなく、それを生産するのを助けもする。
 彼が言うように、テクストは、モデル読者を想定して成り立っていながらも、同時に、テクストを読んでいる者を、モデル読者になるように仕向けてもいるのだ。どちらが優位に働くかはそれぞれの場によって異なる。
 では、モデル読者とは別に存在する、実際の読者についても考えてみる。和田敦彦氏*11は、この実際の読者を「実体的読者」と呼び、「読者」という用語は、「実体的読者」を虚像として処理してしまい、その差異を見えなくしてしまっているという。彼は、この「実体的読者」こそが、テクスト生産において、支配的な機能さえ帯びる存在であることを指摘する。その一方で、受容理論において用いられる「読者」は、特権的なテクスト生産の主体であり、読者こそがテクストを生産する自由と支配力を持つという、「実体的読者」の概念をも、含んでいるとする。この矛盾は、「読者」という用語のために、問題にしにくくなっているという。しかしながら彼は、イーザーの「内包された読者」という概念は、読み手の姿を描き出すことのできるものとして、有効であるとする。「語り方やもたらされる情報によって刻々に変貌する読み手のとらされる位置の時間的な差異を記述することのできる理論だ」とし、「一貫した実体的な不変的な概念」である「読者」よりも、差異が問題にできる用語だとしている。
 イーザーは「内包された読者」をテクスト自身が生みだすものとして、「実在の読者」と区別する。しかし、これらの概念の区別の範囲がどうであれ、読み手はどういった役割を担い、それをどこまで実行しているのか、と考えれば、和田氏の言う「語り方やもたらされる情報によって刻々に変貌する読み手」としての「内包された読者」という概念は、有効に用いることができると考える。

1.3.2.テクストに対する信頼感

 イーザー*12によると「内包された読者」は、常に文学テクストから、特定の役割を与えられている構成概念だという。この役割とは、テクストが与える共通的な視点を捉えることであるという。
 この概念は、相互に密接な関連をもつ二つの基本的な局面、すなわち、テクスト構造としての読者の役割と、行為構造としての読者の役割とによって規定される。どの文学テクストもなんらかの形で、(典型的である必要はないにしても)作者の世界観を表現している。テクストは決して現実世界の単なる反映や模写ではなく、利用できる素材を用いて独自の世界を構成している。この構成の仕方に、作者の遠近法が現われてくる。
─略─
 文学テクストは世界に対する一つの見方を表現するばかりではなく、それ自体さまざまな遠近法の構成体であって、作者の見方のあらましを示し、読者はそれをもとにさまざまな遠近法をとらえて行くことができる。これは、小説を例にとるとわかり易い。小説はさまざまな遠近法を組み合わせ、その作者に固有な視覚を伝える。通常は四個の相互にきわ立った遠近法、すなわち、語り手、登場人物、筋、虚構の読者が支柱となっている。こうしたテクストの遠近法の間には、重要性に応じた順位はあるが、そのうちのどれか一つをとらえれば、テクストの意味が同定できるというものではない。むしろ遠近法の分化は、ものの見方の基準点をどこにおくかという違いによっている。遠近法は相互に関連を保ち、共通点を指示するように組み立てられている。この共通点がテクストの意味といわれるものであり、読者は好むと好まざるとにかかわらず一定の視点をとる場合にのみ、テクストのさまざまな遠近法を統合して、一つの意味に焦点を合わすことができる。
 和田氏*13によると、読み手がどこに自分の視点を置くかという問題は、読み手がテクストから把握する情報に境界がある、ということを問題にする。
 読解過程において、私たちが構成してゆく世界は、何らかの境界によって限定されたり枠づけられたりしているのか、どうか。私たちが見る時に視野という限界を持っているように、読書において私たちの内に構成しようとする像にも限られた限界が有るのではないか、という推測がそこにはある。
─略─
 心の中で出来事を構成してゆく時に、私たちが把握することのできる、注意する領域に限界があるという考えは、読書論で言えば、W・イーザーにも見られる主題と地平という重要な概念とつながっている。
─略─
 この考えから、議論を進めるなら、絶えざる読書の中で、テクストの世界を一度に把握、構成できる私たちの能力が限られていることになる。ところで、視覚的な対象を再構成するには、非常に多くの情報量が必要となる。したがってそれに似通った印象が浮かぶということは、限られたその能力を無駄なく、集中的に用いることによってのみ可能になるだろう。つまり、その時私たちが作り上げる像が、よほど限定され緊密につながりあっていなくてはならない。分かりやすく言うなら、限られたファインダーの中に多くの人達がおさまるためには、写真に写る人達が身を寄せ合わねばならないということだ。
 読み手は、テクストという膨大な情報の固まりから、メッセージの輪郭をすぐに抽出しなければならない。そして、多くの情報を捨てていかなければならない。この作業を、単なる経験や、知識によって行っている、と処理するのではなく、そこには規則性や原則があるのではないか。和田氏は、この境界を捉える方法には、「慣習の役割を重視する方向」と「不変的な規則を重視する方向」の2種類があるとする。前者は慣習的に、われわれの内にある把握の仕方、後者は生きる世界を維持していくうえで、不可欠なものを把握していく仕方である。さらにこの境界を捉える働きについては、次のように述べる。
 もしある情報とその情報との送り手に関する情報の間で私たちが安定させている言葉の信頼性に変更があれば、注意し、新たな信頼の度合いを、決定しようとする。これが境界の信号となるのではないか。つまり、読書において私たちが送られて来る言語の信頼性を一定に保とうとする傾向こそ、時間的、空間的にその情報を安定させようとする私たちの行為こそ、さまざまな境界を生成する基本的な働きとはいえないか。これを読みにおける確信度の問題と呼ぼう。
─略─
 読みにおいては、常にある情報に対して、いわば素性の洗い出しが平行して行われている。例えばある描写に対して、それを知ることのできる、描写できる位置を前後の文脈の流れの中で割り出そうとする。その言葉とその言葉を発することのできる位置との関係をとらえようとする。ただし、その位置に語り手とか作者とか登場人物が「いる」わけではない。その位置は、その情報の提供者としてその位置を占めることができると想定しうる人物(あるいはその役割)の集合といってよい。これを可変項と呼んでおこう。
─略─
 この可変項の決定(分かりやすく言えば、誰が語っているのか)と、そのもととなった情報(語られたこと)との間の位置付け(直接見て言っているのか、伝聞か、過去のことか、確信をもって言っているか、など)の問題ととらえ直すことができる。つまり、見ている地点、立場の割り出しは、最終的にはこの位置付けの問題となり、その情報がどれだけ信頼できるか、あるいは受け入れるべきかどうか、といった判断の問題となる。この位置付けの問題を「確信度の問題」と呼んできたわけだ。
 読み手は、可変項を決定することで、語られた情報が、信頼できるものなのかどうか判断しながら、読み進めていく。そして、この信頼性が揺らぐときに、境界を感じ取り、信頼性を安定させようとして、新たに可変項を決定していく。読み手の役割は、この作業の繰り返しである。
 ここでいう可変項の決定は、読み手による意味生産が、テクストとの距離によって行われているということを指摘するものである。イーザーの「内包された読者」という立場から、読者の役割をみると、テクストに仕掛けられた仕掛けと、それに対する読み手の反応が、さまざまに変化し、意味生産を行っているとされている(下図右参照)。しかし、読み手の反応は、変化しているのではなく、むしろ同じ反応を保とうとしている(下図左参照)。同じ反応を保とうとして、テクストとの信頼感による距離を、調整しているのである。つまり、読み手はテクストによって、さまざまに意味生産を行うのではなく、さまざまな立場からの意味生産を、一つのテクストに対して行っているのである。
 そのような意味で、読み手が読解過程に行う作業そのものは、ある規則性をもっている。ただ、その規則性のリズムが、読み手によってさまざまな形を取ると考えられる。


 抽象的に論が進むことをさけて、実際に、読み手がどのように、意味生産していくのか、考えることにする。可変項の決定がいかに行われているか、それを知るのは、読み手自身のみである。他者から、いかにアプローチしても、その実態を知ることはできない。しかし、その実態に近い領域までは、知ることができると考える。そこから、読むということは、どう実体的なものとして述べることができるか、試みたいと思う。

2.テクスト分析

2.1.予想活動

 この章では、実際に調査で使用するテクストについて、読み手の予想活動を具体的に考察していく。実際に、読み手がどう読むかを考える前に、書き手がどのような読み手を想定しているのかを考えることは、モデル読者の役割を考えることにもなるだろう。
 書き手が、読み手に対して、こう読んで欲しい、こう読ませたいと期待して、テクストを提示しているとすれば、そう読ませるためにテクストには、仕掛けがなされていると考えられる。モデル読者を想定して、設定される仕掛けによって、実際に読み手が行う読みの行為は、何らかの制約を受けることになる。というよりも、読み手の予想活動は、この仕掛けに誘導され、検証、修正をくり返していくことになる。

 次に、読み手の側から、モデル読者というものを考えてみる。
 読み手はまず、第1文において、このテクストはどういった種類のテクストで、どう処理していけばいいのか、その方法を選択する。どういった種類というのは、ジャンルと考えることができるだろう。読み手は、どんなジャンルのテクスト生産を行っているのか、それによって、使用するコードを探さなくてはならない。複雑に、いくつもあるコードから、適応するものをいくつか選び出すのだ。それが、調査で使用する「あくる朝の蝉」というテクストの場合は、書き手が、読み手に主体的に解釈するよう求めている。従って、読み手は、これから先の文において、言外に含まれた情報をより多く得るように、努めていこうとすると考えられる。
 エーコ*14は、この読み手が経験的にもっている約束事について、次のように述べる。
 言語による言表行為の場合、言表がそれを発する者に関連すること、そして話者が何を語ろうとしているのかを決定しようとして言語コードに頼る以前に、話者が遂行する行為の性質について、さまざまな言語外的情報を受け取っていることは、十分明らかだ。ある命令を受け取っていることを知るために、\きみに…を命じる\という表現を言語学的にコード解読する必要はない。音調的諸要素、社会状況、身振りが事前に介入するかもしれないからだ。しかし時には、この行程が逆であるかもしれず、表現をまずコード解読してはじめて、状況の決定に合流するべき情報が受容されることもある。通常、この運動には揺れ動きがあり、一連の漸進的な調整をとおして、受信者は自らがどのようなタイプの言語行為にさらされているかを決定するのである。こうして、もしメッセージが指示行為として理解されるなら、受信者はすぐさま外延的作業のいくつかを遂行し、すなわち話者が共通経験の世界を指示していること、また彼が真実を語っているかどうか、なにか不可能なことを命令ないしは要求しているのかどうか、などを確定するものと想定されうるのだ。
─略─
 しかし書かれたテクストを読むとき、言表行為の状況への指示はほかにいくつかの機能をもつ。第一のタイプの指示は、内容のレベルで、次のようなタイプのメタ命題を暗黙のうちに顕在化することにある。《私がこの瞬間に読んでいるテクストを言表したひとりの個人がいる(いた)。この人は彼がわれわれの共通経験の世界について語っていると私が思いなすよう、要求する(もしくは要求しない)》。こういったタイプの顕在化は、テクスト「ジャンル」に関する直接的な仮説をも伴なうかもしれない。つまりそのとき、小説、歴史記述、科学などのテクストにさらされているかが決定され、それが新たに外延的決定へと跳ね返っていく。第二のタイプの指示は「文献学的」なタイプのもっと複雑な作業を伴う。つまり、現代から遠い時代に言表されたテクストについて、まさにどのようなタイプの百科辞典に依拠すべきかを知ろうとして、本来の空間的・時間的な位置を再構成しようとする場合が、それにあたる。
 このようなテクスト生産の方法を決定しないままで、読み手が先の文へと読み進めていった場合、テクストと読み手の関係がどうなるのか、といった点についても、調査結果から、考察していきたい。

 次に、ファーブラを形成するために、読み手が行う予想活動を考えていく。この予想活動について、
エーコ*15は、次のように説明する。
 モデル読者は、相つぐ諸状態を先取りすることで、ファーブラの展開への共同作業を求められるのだ。読者による先取りはファーブラの一部となり、その部分は読者が読もうとする部分に呼応するはずだ。一旦読んだなら、テクストが彼の予想を確認するかどうか、わかるだろう。ファーブラの諸状態は、読者が先取りするファーブラ部分を確認するか否認する(真とするか偽とする)(Vaina, 1976, 1977)。
 ストーリーの終結部───テクストが確立したとおりのそれ───は、読者の最終段階での先取りを検証するだけでなく、もっと前の先取りのいくつかをも検証する。それは一般に、読み全体の流れをとおして読者が表わす予想能力に対して、暗黙の評価を下すのだ。
 この予想活動は事実、解釈過程全体をつらぬき、他の諸作業との密接な弁証法をとおしてのみ展開しながらも、その間、言述構造を顕在化する活動によって、絶えず検証されていく。
 次章で見るとおり、この予想する際、読者は、事態の進行様態に対して命題的態度(信じる、欲する、願う、望む、考える)を取る。そうしながら、彼は出来事の可能な進行あるいは可能な事態を形づくる───すでに述べたとおり、彼は諸世界の構造について、思い切って仮説を立てるのだ。
─略─
 われわれはただ、物語テクストが関連する百科辞典的能力に照らして、またテクストがあらかじめ仕掛ける手に照らして、蓋然性の離接を予見するのが妥当かどうか、自問しなければならない。そうしてみると、予想者による命題の形づくるものを「可能世界」と呼ぶのが、もっともよいかもしれない。
─略─
 テクストで、ラウールが手を上げるとき、読者は百科辞典によって、ラウールが手を上げて打とうとすることを理解するよう求められる。しかしこの時点で読者は、ラウールがマルグリットを打つのを期待する。この第二の動きは、第一の動きと記号論的に同質のものではない。第一の動きは言述構造を顕在化し、期待ではなく安心を生成させるのに対して、第二の動きは、ファーブラを先取りしつつ顕在化するよう試行的に共同作業し、緊張、賭、仮説的推論といった性格をもつ。
 仮説を思い切って立てようとすれば、読者は、共通の、あるいはテクスト相互的なシナリオに依拠しなくてはならない。「通常、こうすればいつでも、他のテクストで起こるとおり、私の経験からすれば、心理学が教えてくれるように……」といった具合だ。事実、あるシナリオを活性化するとは(とりわけテクスト相互的なシナリオの場合)、あるトポスに依拠することを意味する。このようにテクストから外に出る(テクスト相互的な戦利品でいっぱいになってテクストに戻るため)ことを、推敲散策と呼ぶことにしよう。
 このエーコの「可能世界」とは、和田氏のいう「境界」に近い概念ではないだろうか。読み手が、仮説により次第に形作っていく「可能世界」という概念と、言葉に対する信頼性と、その言葉から得る情報に対する信頼性を、安定させることで自ら浮かび上がる「境界」という概念。この二つの概念は、読み手が自ら意識的に作るものか、結果的に出来上がるものかの違いであると思われる。そして、読み手はこの両者の方法を用いて、「可能世界」や「境界」を構成しているのではないかと考える。たとえば、冒頭においては、「可能世界」が作られる。「境界」を浮かび上がらせるには、提示される情報が少なすぎるからである。信頼性を確認するほどの情報が、初めの数文では、得られにくい。そのような場合は、むしろ読み手は、「可能世界」を生成しようと意識的に読みを行っていると考えた方がよい。それが、後続文に進むにつれ、情報が集まってくると、読み手の出来上がった信頼性を揺るがす情報が、自動的に「境界」として浮かび上がってくる。このようにして、「可能世界」や「境界」の生成が、それぞれの状態に応じて、行われていると考えることが出来る。

 さて、「可能世界」を作り上げていく冒頭部に関して、タイトルについての問題がある。タイトルに関しては、さまざまな機能があり、問題とされることではあるが、ここでは、本文の構成一部として、本文を代表するような機能をもつという差異を確認するに留めておく。今回の調査では、タイトルと、本文を直接に関連づける読み手の作業に及んでいないこともあり、タイトルに関しては、異なる場での考察を要すると考える。

2.2.テクスト分析───書き出しの機能

 調査で使用するテクストは、井上ひさしの「あくる朝の蝉」である。
 この作品は、孤児院にあずけられている少年が、弟を連れて夏休みに祖母の家を訪れるという2日間の物語である。少年は祖母に引き取ってもらうことを期待してやって来るが、叔父が反対していることを知り、翌日朝早くにこっそり祖母の家を出る。その朝、裏口から外へ出たふたりは、エゾ蝉の鳴き声にせき立てられるように孤児院へ戻っていった。

 このテクストは、冒頭部において、林巨樹氏*16のいう破題法的書き出しをとるものである。林氏は、破題法の効果について次のように述べる。
 主題目を示すこともなく、前置きもおかず、いきなり話を始める。ことさらに読者に「何が始まるのだろう」「何を言おうとするのだろう」と思わせながら、話に引き込んで行くのである。
 この破題法とは、描写文(談話文を含む)、引用文など、まだ登場していない視点人物を通して語られた文の形態をとる、書き出しのことである。視点人物自身が顕れるよりもさきに、視点人物にうつる事物が語られる。このため、読み手(聞き手)は、自ら視点人物を想定しなくてはならない。ということは、すぐさま、生産するテクストの大枠を成立させなければならない。冒頭文において、いきなりテクストへの信頼性を確保しなければならない。これが、読み手を「話に引き込んで行く」テクストの仕掛けになるのであろう。

 しかし、テクストの仕掛けが、読み手に主体的なテクスト生産を行わせる、というのは矛盾している。テクストが、読み手を動かすことはない、というのが実際である。読み手が主体的にテクスト生産を行う準備が整っている状態において、テクストは読み手を導くのである、といったほうがよい。
 このような意味において、読み手が主体的な読みを行えば、テクストの仕掛けによって、予想活動はある方向へ誘導されていくことになる。この「あくる朝の蝉」には、この読みを方向付ける仕掛けが、多く見られる。その中でも、冒頭部の書き出しは、時枝誠記氏*17の言うように、文章全体における「表現の展開」の根本という性格上、読み手に与える影響が多く見られる箇所であると考える。そこでこの作品の冒頭部を、調査に使用するテクストとして、取り上げることにした。
 では、読みの行為に影響を与える仕掛け、となる表現を具体的に、取り上げていく。

「あくる朝の蝉」 冒頭部分
井上ひさし
  1. 汽車を降りたのはふたりだけだった。
  2. シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて改札口の番をしていた。
  3. その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。
  4. すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。
  5. 土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。
  6. 弟は口を尖らせていた。
  7. ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。
  8. 「思いきり息をしてごらんよ」
  9. 弟にぼくは言った。
  10. 「空気が馬くさいだろう。
  11. これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」
  12. 弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。
  13. 「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」
  14. 「ぜんぜん」
  15. 孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。
  16. 「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」
  17. 弟がこの町を出たときはまだ小さかった。
  18. この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。
  19. でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。

 破題法的な書き出しをとることで、舞台設定に関する情報は、後に引き延ばして語られることになる。読み手は自分自身で、舞台設定に関する情報を集めるための枠を、準備しなければならない。つまり、引き延ばされた情報を、ブランクとして感じ取り、それを埋めていくためのスペースを作らなければならない。この作業は、文学テクストを読み解くための約束事として、読み手の中に前もって用意されているルールがなければ、実現しにくいだろう。テクスト生産の完成図が想定されていなければ、何がブランクとして充足されなければならないのか、わからないからだ。従って、読み手がどれだけ、この約束事を使用可能なものとして、習得しているかによって、この書き出しの効果は異なってくる。これは、読み手がどれだけ、書き手の期待するモデル読者の役割を果たせるか、ということにも関わってくる。
 しかし、この書き出しは、読みの行為を制約するものなのか。第一文は、描写文とも記述文とも捉えられ、情報を把握するには漠然とした大枠しか提示しない文である。これは読み手の側にとっては、具体的な情報を得ることができない代わりに、自由に読みの方向性を決められるものだともいえる。書き手の側が意図的に、読み手に自由に読ませようと、仕掛けたものであれば、読みの方向性を固定しない読みを期待していることになる。
 エーコが言うように、テクストは、モデル読者を想定して成り立っていながらも、同時に、テクストを読んでいる者を、モデル読者になるようにも仕向けている。(1.3.1の「モデル読者」参照)。どちらが優位に働くかはそれぞれの場によって異なる。この「あくる朝の蝉」については、テクストがモデル読者を生産していると言える傾向が見られるものと期待する。

2.3.テクスト分析───ブランクと仕掛け

 冒頭部の叙述に関して、読み手が「可能世界」や「境界」を生成する過程を考察する。
 後頁の表(3頁分)は、明示されている情報と、そこから得られる情報を書き表したものである。この表において書き記した情報は、読み手によって、さらに詳しく追求される情報もあれば、切り捨てられる情報も含んでいる。しかし、あらゆる情報を一旦は取り込むことで、与えられていない情報が何なのか、というブランクを感じ取ることができる。
 ここでいうブランクは省略された情報、つまり書き手と読み手の間で明示しなくとも了解できることとして、相互に補える情報は含まない。書き手が意図的に、読み手に知られないように提示しない情報、あるいは、意図的に提示されていないと読み手が感じる情報を指す。従って、切り捨てられる情報も、読み手にブランクを知らせるために、テクストには必要なものになる。
 この表においては、ブランクが明確になるように、できるだけ構文的に、基本的情報を表すことにした。
図3
備考空所空所空所空所空所空所人物の重要性視点人物は?どうしたなにをどのように人物設定/その心理状態だれがなぜ どこでいつ
  1.汽車を降りたのは二人だけだった。
名詞文     「ふたり」とは誰なのか? 視点人物はだれか?降りた汽車を  ふたりだけ→ふたりとは誰?誰の視点か  汽車→田舎?(の駅)ふたりだけ汽車→昔か?
  2.シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、顎から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて改札口の番をしていた。
       駅員は主人公なのか? 垂らした/改札口の番をしていた手拭いを頚から/柱に凭れて 年配の駅員/どんな駅員か?(重要か)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐため 手拭いを垂らし、柱に凭れていても構わないような小さな駅汗→夏・具体的にいつ?
  3.その駅員の手を押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外にでた。
      ぼくとその連れぼくが主人公か?ぼくが視点人物渡し/横切って外へ出た切符を二枚その駅員の手に押しつけるようにして/ほんの四、五歩でぼくは駅に関心を持っていないぼく→視点人物:ふたりとはぼくとその連れなんの目的で来たのか? 小さな駅 田舎 
  4.すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具のえた匂いを置いていった。
    匂いについての丁寧な描写/匂いの持つ意味とはなにか?    通り過ぎ/置いていった馬糞の交じった土埃と汗で湿った革馬具の饐えた匂いを尻尾で蝿を追いながら 荷馬車を引いた老馬が 荷車・老馬・蝿・馬糞・土埃・汗・革馬具の匂い→田舎・農業の匂いすぐ(ぼくの)目の前を 
  5.土埃りと革馬具のえた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。
    臭くても「深々と」吸い込む「匂いは」ぼくにとって重要なものこの兄弟は何の目的で来たのか?ぼくと弟  吸い込んでいると/追いついて来てぼくに並んだ土埃と革馬具の据えた匂いを深々と→「匂い」はぼくにとって親しいもの (ぼくが)/弟が    
備考空所空所空所空所空所空所人物の重要性視点人物は?どうしたなにをどのように人物設定/その心理状態だれがなぜ どこでいつ
  6.弟は口を尖らせていた。
         尖らせていた口を 弟の年齢は幼いのか?弟は(なぜ?)
   
  7.ぼくがひとりでさっさと改札口を通りぬけたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。
            置いてきぼりにされる弟→(捨てられる) ぼくがひとりでさっさと改札口を通りぬけたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。   
  8.「思い切り息をしてごらんよ」
会話文        してごらんよ息を思い切り兄は弟に対して悪気はない     
  9.弟はぼくに言った。

   何故弟に息を吸わせるのか?→「匂いの」重要性大    言った弟に  ぼくは    
  10.「空気が馬くさいだろう。
会話文  何故説明するのか→弟は「匂い」を知らないから→何故知らないのか     馬くさいだろう   空気が    
  11.これがぼくらの生まれたところの匂いなんだ。
会話文  生まれたところを教える→弟は生まれたところを憶えていない→生まれてすぐにこの場を出たのか?→→→→生まれた田舎に久しぶりに戻ってきた→何処から?   ぼくらの生まれたところの匂いなんだ   これが    
  12.弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。
         地面におろし/吸い込んだボストンバッグを/息を顔をあげて深くボストンバッグを持つ弟→ハイカラ(対田舎):兄を受け入れる弟弟は    
備考空所空所空所空所空所空所人物の重要性視点人物は?どうしたなにをどのように人物設定/その心理状態だれがなぜ どこでいつ
  13.どうだ、この匂いを憶えているだろう?
兄のセリフ  「匂い」を共有しようとする兄の強い意志    憶えているだろうこの匂いを        
  14.「ぜんぜん」
弟のセリフ   兄と弟の相反する反応    憶えていない ぜんぜん      
  15.孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は方を竦めて見せた
特異な情報 「孤児院のカナダ人修道士」はどうゆう関係があるのか?→弟の周りの人:メディア・近所・孤児院にいるのか?      竦めて見せた肩を孤児院のカナダ人修道士がよくやるように 弟は    
  16.「別にどうってことのない田舎の匂いじゃないか」
弟のセリフ   兄にとって親愛的な匂いを否定する弟「ただの匂い」故郷に対する思いはない    田舎の匂いじゃないか べつにどうってことのない故郷とはかけ離れた弟     
  17.この町を出たときは弟はまだ小さかった。
 幼くして故郷に出る事の意味は?幼くして親を亡くし、孤児院に行ったのか?←←←←←←←←小さいときに故郷に出る。何故出たのか?何処に行ったのか?   まだ小さかった   弟が   この町を出たときは
  18.この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。
兄の心理   当然かも知れないが、兄には忘れられない匂い    記憶にないのは当然かもしれないこの匂いが 弟を理解しようとする兄(弟が)    
  19.でもぼくにはこの馬の匂いと生まれ故郷の町とを切り離して考えることが出来なかった。
 幼くして故郷を出ることの意味は?幼くして親を亡くし、孤児院に言ったのか?  小さいときに故郷にでる→何故出たのか?何処に行ったのか?   まだ小さかったこの馬の匂いと生まれ故郷の町とを  ぼくには    

 次に、「あくる朝の蝉」冒頭部における仕掛けの、いくつかを考える。
@一文の「ふたりだけだった」の「だけ」は、何を限定するものなのか。
  1. 視点人物は、駅に誰かを迎えに来ている。そしてその迎えに来た人が降りてくるのを待っていたら、待ち人以外の二人しか降りなかった。
  2. 視点人物は汽車の中にいて、停車した駅で、二人の乗客が降りていくのを見る。そして、二人しか降りないような、小さな駅だと感じている。
  3. 視点人物が降りたった駅には、自分ともうひとりの乗客の二人だけしかいなかった。
  4. 視点人物は駅員である。いつもの退屈した日々の中で何かの出来事が始まる、その始まりが、汽車から降りた二人の乗客だった。
 いくつかの推測が考えられるが、書き手がわざわざ「だけ」を用いることで、与えようとしている情報は何か、を考えてみる。
 すると、1. の推測からは、視点人物のがっかりした感情を得ることができるだろう。また、2. からは、この駅の閑散とした様子が、得られると思う。3. からは、「自分と他にもうひとり」、という捉え方ではなく、「ふたり」という統括的な、第三者的な捉え方をする点を考えたい。汽車を降りた二人が、何らかの関係をもってくるというような、読み手の視点を二人に注目させようとする書き手の狙いが伺えるのではないだろうか。4. は、駅員の不変な時間が、汽車から降り立った二人によって、変わっていくような変化が伺える。

 いずれの推測も、視点人物をどこにもっていくかということで、その方向性はさまざまに異なる。言い換えれば、第一文において、視点人物が誰であるか、明示されていなければ、読み手は自ら視点人物を想定して、ストーリーの方向性を決定する必要がある。「だけ」という語が、読み手に、1. 〜 4. のような情報を与えるだけでなく、視点人物を設定させるという働きをしているのだ。
 その際に、どういった人物を視点人物にしていくかという問題は、読み手個人の経験や、これまでの環境といった、テクストの外部にある要因がかかわってくるのだろう。

 書き手は、必ずしも、ストーリーの内容通りの方向へ、読み手を向かわせるわけではない。方向性をストーリー内容とはわざと異なる方向へ推測させ、意外性をもたせる場合もある。意外性を感じなければ、仕掛けた狙いは反映されないことになる。いずれにしても、やはり、書き手の仕掛けが狙い通りに反映されるかどうかは、読み手にかかっている。仕掛けが、書き手の狙いとは異なる読みを、読み手にさせた場合を想定して、後続文においても、さらに読みの修正を行わせる機会を設定すると思われる。

 このように考えると、視点人物の決定は、第一文において、求められてはいない。書き手は、第一文では、自由な方向付けを読み手に許している。そして、視点人物の決定は第二文以降に持ち越すことができる。決定せずに読み進めても、第二文以降において、決定することになる仕掛けがあると考えられる。

 ここで、視点人物と語りの問題に触れておく。和田敦彦氏*18は、語りの手法について、次のように述べる。
 さて、語り方に重点を置くという研究には、最初から二つの極性がはらまれている。登場人物の発言や思考、知覚について語り、伝え評価する主体が顕在化する場合と、むしろそうした語る存在が感じ取れなくなるという場合、という二極性だ。
─略─
ここで、私たちの理解過程自体に焦点をあてられるよう、この二極の方向性自体をとらえなおしてゆこう。一方の極は、読みにおいて、登場人物やそのかかわる出来事、光景について語り、伝え、判断する主体(可変項)が私たちの視界から後退し、私たち読者が、登場人物の行為し、知覚し、判断し、発言するテクストの中での「いま」へと身を寄せる場合、こうした場合を「伝達行為への注意」がなされないる場合とよんでおこう。もう一方は、可変項の顕在化する、つまり、その登場人物の「いま」について語り、判断し、あるいは思い出す行為を私たちがあらわに感じ取る場合。これを「伝達行為への注意」がなされる場合、というようによんでおこう。
─略─
 「伝達行為への注意」が行われる要因について考えてきたとき、その主要な要因としてこれまでしばしば注意を引いてきた形態上の特徴として、いわば、「知の領域」といってもよい要因がある。「知の領域」というのは、例えば登場人物の見、聞き、知る範囲内で出来事が私たち読者に知らされるか、それともテクストの世界で肉体的な制約を負った登場人物によっては到底知ることのできない、その他の人物の思考や感情をも(推測や仮定の形を取らず)私たちが知らされているか、といった問題である。この領域が不安定であれば、知っていないことを知っている、あるいは知っているはずのないことを知らないように、つまりはその情報を絶えず出し惜しみしたり押し付けたりする語る主体があらわになるので「伝達行為への注意」がしばしば引き起こされる。
 読み手に視点人物を想定させようとする語りは、語り手の仕事を読み手に課しているわけで、可変項が後退していることになる。可変項が読み手に直接語っているのであれば、視点人物を想定する必要はない。したがって、この作品においては、「伝達行為への注意」がなされず、そのため、汽車から降りた乗客ふたりを、第三者的に捉える視点をもつ人物を可変項として想定することになる。
 その一方で、視点人物の設定に関して何の反応も行わない読み手もいる。つまり、視点人物の設定という課題意識がない読みである。視点人物の存在を自覚していないために、結果的に、語り手を登場させている。「伝達行為への注意」がなされている語りとして、無意識に読みを行っているのだ。この読みについては、後でもう少し考えていく。
A視点人物は誰か。
 第一文で引き延ばされた視点人物の決定、また、すでに決定していた場合はその確認は第二文でどのように変化するか。第二文の「シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう」という駅員の心情を推し量っている叙述から、〔その4〕のような、視点人物=駅員という説は切り捨てられる。しかし、視点人物が誰かは明らかではない。従って、引き続き決定は引き延ばされる。
 第一文において、視点人物の設定に対して何の反応も行わない読み、つまり、この作品を和田氏の言う「伝達行為への注意」がなされている語り、と捉えられた読みは、語り手を登場させ、その存在を認めている。その場合は、語り手は、駅員の心情を推し量って、第二文を語っている。そして、駅員が主人公で、駅員に関する物語がこの先続いていくという読みになりうるだろう。

 しかし、第一文において視点人物の設定を意識化していなくとも、設定を引き延ばしていても、読み手は、第三文において、決定を強いられる。第三文で、「切符を二枚」もった「ぼく」が視点人物になることを知る。
 さらに、「切符を二枚」から、@の〔その3〕の推測へ、あらゆる読みは修正される。その結果、語りについても同様に、「伝達行為への注意」はなされない読みへと修正させられる。読み手は、〈登場人物の行為し、知覚し、判断し、発言するテクストの中での「いま」へと身を寄せる〉ことになる。

 読み手がテクスト世界へ自らを近づけていく読みでは、ブランクを感じやすい。視点人物が知っているはずのことを、なぜ述べられていないかという思考が働くからである。ブランクを感じやすいと言うことは、それだけ情報を多く得ようとする、能動的な読みを行うことになる。つまり、この作品は、能動的読みを促すテクストであると考えられる。
 以上のことから、実際に能動的読みとはどんな活動を行っているか、という調査を行い、その実態を検証していきたいと考える。そこで、能動的読みとして行われる活動を、それを引き起こすきっかけとなる、テクストの仕掛けと共に、仮説として次のようにまとめる。


《能動的読みの活動》
  1. 読みの前提にある人物設定の意欲→行動描写などから心理を読む。(登場人物はどんな性格なのか、どんな状況下にあるのかなど)
  2. ブランク(5W1Hのブランクを含む)の発生→ブランクを発見、その重要性を意識し、埋めていく。(主語が欠けていたり、理由が述べられていないなど)
  3. 現象文の連続→現象文に対する判断文を探す、または判断文に相当する意味づけを行う。(情景描写などが登場人物の心理を象徴するなど)
  4. 特異的情報の埋め込み→違和感を処理するために関係づける。(話題が突然変わる、また話題に沿わないことばが出てくるなど)
  5. ギャップ(既有の情報と新たな情報が一致しない)の発生→読みの方向を修正する、あるいは読み直す。(今までの読みに沿わない、登場人物の行動や事柄の発生が起こるなど)

3.能動的読みに関する調査

3.1.調査の実施

3.1.1.調査実施日時

1997年10月7日(火)於大阪教育大学教員養成課程「国語学概説」受講者60名
「小専国語」受講者55名
1997年10月14日(火)於小坂病院付属看護専門学校「論理学」受講者54名
1997年10月於大阪教育大学教員養成課程文章表現ゼミナール4回生3名
1997年10月 社会人6名(28〜50才)
  合計178名

3.1.2.調査用紙


行間読みに関する調査
 文章を読む時に、読み手が具体的にどのような作業を行っているのか、ということを調査したいと思います。みなさんがある文章(文学作品)を読むときに、具体的にどんなことを感じ、どんなことを読みとっているか、自分自身で確認できることを(簡略で構いません)書き留めてください。無理に書く必要はありませんので、何も感じていなければ次の文に進んでください。

学籍番号
    「あくる朝の蝉」  井上ひさし
  • タイトルからどんな話か推測できますか?

        はい 
  •  いいえ

     はいと答えた方は、どんな話だと思いますか?



  • 「井上ひさし」の作品ということで、どんな話か推測できますか?

        はい 
  •  いいえ

     はいと答えた方は、どんな話だと思いますか?



    (1)汽車を降りたのはふたりだけだった。
  • 何か疑問(謎)に思ったことがありますか?



  • この先に何が書かれてあると思いますか?



    (2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて改札口の番をしていた。
  • いつごろの、どんな場所の話だと思いますか?(舞台設定について)



  • 「駅員は主人公なのだろうか」と思いましたか?

        はい 
  •  いいえ

    (3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。
  • 視点人物は誰だと思いますか? また、なぜそう思いましたか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    (4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじっ た土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。
  • 何か疑問に思ったことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


  • いまどんな場面(風景)を想像していますか? 自分の印象を書いてください。
     何も想像していなければ、なしと書いてください


    (5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。
  • 1文の「ふたり」とは誰だと思いますか? また、なぜそう思いますか?
     (今、この質問で「ふたりとは誰なんだろう」と初めて意識した場合は、ここにチェックしてください。 □)


  • 何か疑問に思ったことがありますか?


  • 「匂い」について、何か疑問に思ったり、何か気づいたことがありますか?
     また、「匂い」についてどんな印象をもっていますか?
     あれば、どこからそう思うか書いてください。なければ、なしと書いてください。


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    (6)弟は口を尖らせていた。
  • 何か疑問に思ったことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    (7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。
  • 何か疑問に思ったことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    (8)「思いきり息をしてごらんよ」
    (9)弟にぼくは言った。
  • 何か疑問に思ったことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    (10)「空気が馬くさいだろう。
    (11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」
  • 何か疑問に思ったことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


  • 「ぼく」とはどんな人物だと思っていますか?
     (今、この質問で「ぼくとはどんな人物なんだろう」と初めて意識した場合はここにチェックしてください。□ )


    (12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。
  • 何か疑問に思ったことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    (13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」
    (14)「ぜんぜん」
  • 「ぼく」と「弟」の関係について何か感じることがありますか?


  • 何か疑問に思うことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    (15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。
  • 何か疑問に思うことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


  • 「孤児院のカナダ人修道士」ということばに違和感を感じましたか?

         はい 
  •  いいえ

    (16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」
  • 「弟」とはどんな人物だと思っていますか?
     (今、この質問で「弟とはどんな人物なんだろう」と初めて意識した場合はここにチェックしてください。□)


  • 何か疑問に思うことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    (17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。
  • 何故、弟はこの町を出たと思いますか? また、何番の文のどんなことと関連してそう思いますか?
     (今、この質問で「どうして弟はこの町を出たのだろう」と初めて意識した場合は、ここにチェックしてください。□)


  • そのほか何か疑問に思ったことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?



    (18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。
  • 何か疑問に思ったことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    (19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。
  • 「ぼく」はどんな人物だと思いますか?


  • 何か疑問に思ったことがありますか?


  • ここまで読んで、何かわかったこと(明らかになったこと)がありますか?
     あれば、何番の文のどんなことについて、何がわかりましたか?


    ご協力ありがとうございました。


 「行間読み」とは調査実施段階で仮題としていたものであるが、被験者には、書かれていないことも推測し、意味づけて読むように、理解してもらった。

3.2.調査結果

 読解の過程は人によってさまざまな形をとり、一様ではないのが当然であるが、個々の読解の方法においては、共通点を見いだすことが出きるものと考える。それが先に挙げた、読み手の活動の仮説である。
 先に挙げた仮説を検証するまえに、それぞれの読みの過程を考察していく。これらの読みの過程において行われる作業は、「能動的な読み」と「受動的な読み」を対極とする軸上に位置付けることができる。どちらの極に属するかは、程度の問題である。能動的な読み方と受動的な読み方の両者が入り交じって、混乱がある読みが大半であり、どちらか一方に割り振れない読みが、本来の姿であろうと思う。従って本論においては、読み手の読解の作業が系統的に見て、能動的依りに行われているか、受動的依りに行われているか、ということで位置付けている。しかし、どちらの読みに属するかということは、結果的なものであるから、どちらに位置付けるのかということよりも、読み手がどんな意図を持ってその読みを行うのか、に注目したいと考える。
 これらの読みから、仮説として挙げた活動が、実際に行われているかは、次章で再考察する。
 以下、数名の調査結果と、そこからわかる読解過程に見られる方法を考察していく。 (調査資料は巻末に掲載)

3.2.1.能動的読みの実際例

例A




読みの作業その意図
「あくる朝の蝉」  井上ひさし →タイトルからストーリーを予想し、読みの方向性をある程度決める。全くストーリーを予想しないで読み進めるよりも、多くの情報をつかむことができる(読みの方向性が決まっているということは、何度も読むと、深く作品を読めるのと同じで、叙述から多くの情報をつかむことができる。)しかし、方向性が大きくずれてしまうと、間違った情報を得ることになる。
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。→「ふたりだけ」の「だけ」を強調する理由に注目。書き手の狙いは何なのかを探る。
 
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて 改札口の番をしていた。
 
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。
→「ぼくは夏の昼ごろ、いなか」(2・3文より)に「汽車」(1文)に乗ってきたという大まかな様子を掴んでいる。
→また、「ほんの四、五歩で横切っ」た(3文)ことから、ここが小さい駅であることを捉える。
→また、「切符を二枚渡し」(3文)たことから、「ふたり」(1文)は、「ぼく」とその同伴者であるとフィードバックして、情報を補う。さらに、大人であれば自分の分の切符は自分で渡すだろうから、同伴者は「ぼくの子」か「年下の兄弟」と推測している。
数字に対して敏感に反応する。数字を境界の信号としている
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。 
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ
→3文での「ふたり」に対する推測が正しかったことを、確認している。
→「匂い」は場面をイメージするのに役立っている、と「匂い」がこの作品に於いて果たす役割について捉えている。
ここにおいて、平和な風景と捉える。
田舎を平和なものとする。
 自分の読みを、フィードバックして叙述に反映させているところから、自己の読みを修正する準備があることがわかる。
「匂い」がどんな匂いか、ということよりも、舞台設定の一つの道具であると捉えていることから、書き手の意図を意識した読みが行われている。
(6)弟は口を尖らせていた。
→口を尖らせている理由が、容易に<明らかに欠如している情報>として、疑問に思う。
→3・4・5文より、「ぼくはさっさと弟を放って歩いていたから」と「弟が口を尖らせていた理由」を推測している。
 容易にブランクを感じ、それを埋めるような読みを、今後行っていく。
「境界」が十分に捉えられていると思われる。というのは、「ぼく」の視点からは、弟の口を尖らせる理由は理解可能なものであるため、当然ブランクを意識する。状況が十分に、自分の読みの中で、再現されているため、場面の脈絡から欠如した箇所を容易に埋めている。
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。 7文は、自分の読みを確かめるだけの文になっている。新たな情報を与える文にはならない。
(8)「思いきり息をしてごらんよ」 
(9)弟にぼくは言った。
→弟が気づいてない匂いをかがせてやろうとしてている、という「ぼく」の発言の意図を推測する。
「ぼく」の視点から場面を再現しいるので、「ぼく」の心理も理解可能な領域となる。従って、そこにブランクのスペースを作り、心理を推測する。
(10)「空気が馬くさいだろう。  
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」
→場面の舞台であるこの田舎が、生まれ故郷であるという認識をもつ。故郷が都会と対極にある田舎である?
→「ぼく」に対して、性格的に人物設定する。感情豊か、弟を放ってまで故郷を感じようとする、のんびりや。
生まれ故郷が「匂い」をもつ田舎であると認識する。
 これまで述べられてきた情報の範囲内で、人物設定している。年齢や、社会的立場といった面での推測は避けている。テクストの内に読み手の視点はあり、外に出ることはない。
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。
→「ボストンバッグ」から長期滞在を推測し、夏休みの里帰りの場面とする。
  これまでの「いなか」「饐えた匂い」などのイメージとは異質な「ボストンバッグ」に注目。そこに書き手が意図的に含めた情報があるだろうと推測する。
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」  
(14)「ぜんぜん」
→ぼく=田舎育ち
弟=生まれてすぐに田舎を離れる(都会育ち)
故郷を懐かしまない
 「ぼく」と「弟」が反対の感情であることを捉える
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。
→喩えにしては具体的すぎる「孤児院のカナダ人修道士」に、違和感を感じる。
 限定した人物を、何の予告もなしに登場させるため、読み手は信頼感を揺り動かされる。しかし、その登場が、喩えに用いられるため、どこまでこの情報を切り捨てずに、留めておけるかが、読みの方向を分けることになるだろう。違和感を感じるが、どう処理するかは、明らかでない。
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」
→弟は兄とは反対の都会っ子であると認識している。
 
(17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。
→幼いうちにこの地を出るということは、自分の意志では無理で、「弟」は親の都合により、この地を出たと推測する。
 
以下未完了
(18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。
(19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。

 



 例Aでは、(1)(4)(5)文の読みに見られるように、書き手がどんな意図をもって叙述しているか、を考えながら意味解釈しようとする。これは読み手が、無意識に、文学をコミュニケーション行為の一つとして成立させ、そこからメッセージを受け取ろうとしているためである。テクストの中に表現されたメッセージを受け取ろうとする、伝達行為を成立させようとする意志が読み手の中にある。そのため、読み手は、書き手の表現意図を意識して読みとろうとする。それに対して、受動的な読みにおいてはこの書き手の意図が意識的に、読みとられていないために、暗示的なメッセージは読み落とされることになる。そして結果的に、伝達されるメッセージは、この書き手の意図を得ようとする能動的な読みによって、受動的な読みより確実に伝達されることになるであろう。
 また、(13)(14)文の読みに見られるように、情報と情報を繋げることで、新たな情報を生み出すことが、系統的に行われている。このような能動的に情報を得ようとする活動は、読解過程におけるある時点において、読み手の中で保持している情報量の違いが、関係してくる。多くの情報量を保持し、常に意味づけていくことできれば、能動的な読みになると考えられる。この情報の保持とは、その情報にどう重要性を感じるかに頼るものである。情報を重要なものとして捉えれば、読み手が意識的に保持しようとし、意味づけが可能になる。重要性を感じ、保持しようとしても、情報量が多くなれば、保持し続けることが難しくなり、そこには優先順位が着けられることになうる。この保持できる情報量の容量が、結果的に能動的読み、受動的読みの違いになると考えられる。



例B


読みの作業 作業の意図
「あくる朝の蝉」 井上ひさし 
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。
→「ふたり」に注目する。二人、あるいはその内の一人を中心に、ストーリーが展開していくのではないかと想定。
→駅の風景、ふたりに関する叙述を想定。
 「ふたり」に注目するが、その推測を決定的なものにはしないで、修正の余地を保持したまま読み進める。
 可変項を(1)文の場景が見える地点におけば、「ふたり」は風景の一部として処理できるが、二人の内の一人に視点を置く可能性も残しているため、場所か人物かという二択を設定する。
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて 改札口の番をしていた。
→終戦直後の山奥、小さな駅
 
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは 外へ出た。
→「ぼく」は視点人物であり、語り手の役割をも担うとする。
→「ぼく」は子どもであっても、そう幼くはないと推測する。
 「ぼく」が語り手の役割を担うとすることで、「ぼく」の視界は多くのものを取り込むことができると想定している。従って(1)文において自らを「ふたり」という全知的視点で語ることも可能であると解釈する。
 また、「ぼく」の年齢を推測することとは、作品世界に読み手が身を寄せているため、人物設定が行われている。
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。
→細かな描写文であるため、そこにブランクを感じとる。老馬を曳く人間は?荷台には何が?
→「荷車」「老馬」から時代設定に関して現代ではないとする。
→山間の小さな駅の前で立っている男という、映像的な場面を想定している。
 読み手は作品世界に身を寄せ、場面を映像的に再現しようとしているため、再現できない部分はブランクとして感じ取られる。
 想像している場面は、登場人物を組み込んだ形で、映像的に再現している。
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。
→弟の登場により、(3)文の読みにフィードバックして、二枚渡した切符の一枚は弟の分であったことを再確認する。
→ぼくと弟の人物設定に関する情報を求める。年齢差は?親、または親族は?ふたりの行き先は?
→「ぼく」が弟の分まで切符を渡してやるような年齢差、つまり切符を代わりに渡してやらないと行けないような弟がいる「ぼく」は、歳の差があったとしても、大人ではないと推測する。
→「匂い」はふたりにとって嗅ぎ馴れていて、気嫌う匂いではないか、やはり臭い匂いなのか、「匂い」と二人の関係についてブランクを感じる。
 (3)文で「切符を二枚渡し」という情報を切り捨てていなかったことが分かる。自分の読みをフィードバックして再確認することで、枠の形成が関係的に行われている。
 弟の登場によって、ぼくと弟は登場人物の中で重要な位置にあるとし、ふたりの人物設定に重要性を感じる。その結果、ふたりの年齢を推測し、そこから親の存在、家族構成に至るまで、情報を求めようとする。この読みが結果的に、ふたりが孤児院にいるという読みにつながるのであろう。
 細かな「匂い」の描写から、ふたりにとっての「匂い」の重要性を考える。
(6)弟は口を尖らせていた。
→弟の口を尖らせる理由にブランクを感じる。
→弟の感情を露骨に仕草に出すことから、弟の年齢が、幼いと解釈する。
 構文的なブランクであるが、そこから、「ぼく」も同じことに対して不満なのか、その理由ではなく、「ぼく」との関係に注目する。
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。
→弟を置いてきぼりにした理由、駅を出て待っていたのに何故不満なのか、といった「ふたり」の関係に注目する。
 兄と弟それぞれの対応に注目している。ここでは、弟が不満に思う理由と読み手の常識との間にギャップが生じ、そのギャップを解消するような意味づけを求める。
(8)「思いきり息をしてごらんよ」 
(9)弟にぼくは言った。
→「ぼくに弟は言った。」との違いを感じ、書き手の意図することを探ろうとする。
 
(10)「空気が馬くさいだろう。  
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」
→「ぼく」が弟に匂いを教えているということは、弟は生まれたところの匂いを知らないからで、その理由は何かブランクを感じる。
→降りた駅は、ふたりの故郷の駅であった、とフィードバックして、関係づける。
 
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげ て深く息を吸い込んだ。
→ボストンバッグの中身は何か?また、ぼくは荷物を持っているのか?といった疑問を抱く。
 ボストンバッグからギャップが生じ(田舎のイメージからは離れたイメージを持つ言葉であるため)、そこに重要性を持つ。その結果、鞄の中身に注目する。また、「ぼく」と弟を常に対照的に関係づけてきたことから、「ぼく」は「ボストンバッグ」に対する荷物を持っているのかという疑問につながる。
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」 
(14)「ぜんぜん」
→兄は物覚えがつく頃、まだこの町に暮らしていたが、弟の方は物覚えがつく前にこの町を出たと推測する。そこから、二人のふたりの年齢差を強く求める。また、ふたりがこの町を去ってからどのくらいの時間が流れているのか、つまり「今」がいつなのか、舞台設定時間に注目する。
→降りた駅は、ふたりの故郷の駅であった、とフィードバックして、関係づける。
 ここでも、ふたりは対照的に関係づけられている。兄は、この町のことを覚えているのに対して、弟は憶えていないと対照的に位置付ける。
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。
→「孤児院のカナダ人修道士」と「ふたり」の関係にブランクを感じる。
 カナダ人修道士は、喩えに使われたものであるが、その存在を登場人物として捉え、二人との関係に疑問を持つ。
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」
→兄と弟の対立的な関係を想定する。

 
以下未完了
(17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。
(18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。
(19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。
 


 例Bでは、(4)の読みに見られるように、読み手は作品世界を映像的に再現しようとして、場面の細部まで、空間的な情報を集めようとする。その一方で、(5)(6)文の読みのような、人物設定に関わる内面的な情報をも求めていく。この両者の情報を相互に関係づけていくと、情景描写による登場人物の心理表現を、読みとることになると考えられる。
 また(7)文以下においては、(1)文で「ふたり」という言葉から、ひとまとまりのものとして登場した「ぼく」と「弟」を、対として関係づけていき、ふたりの対立関係を見いだしている。
 (15)文の読みでは、「孤児院のカナダ人修道士」を登場人物と捉えることで、二人との関係付けにギャップを感じ、その解消を持ち越すことになる。



3.2.2.受動的読みの実際例



例C






読みの作業 作業の意図
「あくる朝の蝉」 井上ひさし
→井上ひさしの作品から、おもしろい話と想定する。
 おもしろいとは滑稽の意。
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。
→駅に対する意味づけの必要性を感じる。
 「だけ」が、駅の様子(乗客がふたりだけという閑散とした駅)を意味づけるものになると意識する。しかし、その様子を想定することはない。そして、「ふたり」はある情景の中の細部として、切り捨てる情報となる。
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて改札口の番をしていた。
→30年前ぐらいの平和な頃、田舎の木造駅舎を場面舞台として想定。
 駅員が「番をしていた」などから、平和なイメージが想定され、そこから戦後という時代を設定。同時に田舎というイメージが木造の駅舎を想定。
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。
→(1)の「ふたり」に、注目し直す。
 (1)で切り捨てた「ふたり」へ注目し直す。
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。
→何度も繰り返し読んで、文意を読みとる。何度も読むことで、描写されている情景を忠実に再現しようとする。
 文の構成が複雑であり、かつ丁寧な描写のため、読みのリズムを狂わすことになる。その結果、読み飛ばされてしまう場合もあるが、ここでは、丁寧な読みを行うことになる。
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。
→「ふたり」が「ぼく」と「弟」であるとわかる。「ふたり」が全くの他人であると考えていたために、修正をする。
→土臭い匂いを想像する。「匂い」に対して、意味づけを行うことはない。
 (1)において、場所に注目していたため、「ふたり」に関する想定が行われていない。ここではじめて、「ふたり」を意識し、読みの方向性が修正される。また、(3)の「切符を二枚」についても読みとられていない。これは、「ぼく」の登場という、最も重要な情報が提示されたために、細部の情報提示の言葉が、見過ごされているためである。
 叙述の外側にある書き手の意図から意味解釈することはなく、叙述内のつまりテクスト内においてのみ、解釈がなされている。
(6)弟は口を尖らせていた。
→弟は怒って口を尖らせており、この地へやってきたことを不満に思っていると解釈する。また、口を尖らせるという幼い行動から、弟の年齢を想定する。
 口を尖らせた理由は、文の構造上からも、ブランクとして意識されるものであり、その理由を推測する。しかし、これまでの文脈から、駅を降りた弟が怒っているとなれば、この地に降りたことが不満であると解釈する。明示された情報から作り上げられた文脈に則って、解釈がなされている。
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。
→(3)を読み返し、読みを修正する。
 「改札口」が、(3)文での読みを修正させることになる。
(8)「思いきり息をしてごらんよ」 
(9)弟にぼくは言った。
→「弟がぼくに言った。」と誤読している。
→「ぼく(弟)」の発言に疑問をもつ。そして、読みは、いやな「匂い」を強調する方向へ進む。
 (5)の「深々と吸い込んでいる」を読みとっていないため、「ぼく」の発言は「匂いが臭い」と強調することになっている。
(10)「空気が馬くさいだろう。  
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」
→この場所がふたりの生まれたところであると認識する。そして、現在ふたりが生まれ地に住んでいないと推測する。
 
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。
→弟の発言によって、弟が息を吸い込んでいることに、矛盾を感じ、(9)の読み違いに気づく。同時に、匂いの臭さも修正され、匂いが生まれた地を確認するものだという認識に変わる。
 現在進行している枠造りに、何らかの矛盾が起こった場合に、その修正を行う。その矛盾は、ギャップの一つであり、枠造りの方向が向かっている軸上の情報と矛盾する情報が得られたために起こる。読み手の視界に入らない、つまり注目していない情報に対しての矛盾は読み落とされてしまう。
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」  
(14)「ぜんぜん」
→兄と弟の生まれ故郷に対する執着の違いを認識する。
→弟はこの地へ来ることに、積極的ではないと解釈する。
 「ぜんぜん」の素っ気ない言葉が、この地に来る事に対する素っ気なさと解釈する。
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。
→「孤児院のカナダ人修道士」がどう関係しているのか、また、その仕草の具体的な様子が分からない、さらに、何故肩を竦めるのかという疑問につながる。また、飛躍した喩えの情報を、読みの枠へ当てはめるように、意味づけを行うことはない。

 喩えが、枠造りの視界から飛躍しすぎていて、その具体的な様子が理解できない。そのため、弟が「ぜんぜん」知らないと肩を竦める状態が、想定できない。
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」
→どうでもよい、という関心のなさは、この地に対するもので、それが派生して、匂いに対しても無関心であると解釈する。
→(2)における「田舎」という推測が正しかったとする。
 匂いに対する無関心さを、これまでの解釈の枠組み上にのせて捉える。
 場面舞台の決定が引き続き行われている。(2)文における推測は、確認を要する程度の確信を伴うものであった。つまり、推測は明示的な情報になるまで、確信を下されない、不安定な状態にある。
(17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。
→(13)(14)での推測を確認する。(町を出たときに弟は幼なかった)。
 (16)同様、これまでの推測は不安定な状態で持ち越されているため、その確認を行う活動を行うにとどまる。そのため、与えられた情報から、ブランクを設定して、言外の情報を得る活動には至らない。
(18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。
→匂いとぼく、匂いと弟の関係を明示されたとおりに、再確認する。
 言外の情報を得るという活動は行われない。
(19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。
→「ぼく」の生まれ故郷に対する思いが深いと解釈する。
 「切り離して」という言い回しが、故郷に対する想いの深さを感じ取らせているのだろうか。



 例Cでは、読み手の視界が狭くなっている。読み手の視界とは、読み手がテクストから、どれだけの範囲に対して、情報を読みとるように焦点を合わすことができるか、または、焦点を合わす範囲として設定できるか、という領域のことをさすものである。その視界に入らない情報は、例Cの読み手に見られるように、(3)文の「切符を二枚」や(5)文の「深々と」を、読み飛ばされる。しかし、視界に入らない、読みとられなかった情報も、ギャップが生じることで、再び読み手の視界に入ることになる((12)文の読みのように)。その一方で、(15)文のような特異情報が埋め込まれていると、これまでの読みとのギャップが大きくなり、ギャップを解消できなくなり、疑問として残されてしまう。
 (16)(17)文の読みのように、自らの推測にある程度の確信性を伴って、次の読みへと発展させていくことがない。推測したことは、後続文で確認、あるいは修正されるのを待つのみである。その推測が正しいかどうかの確認が行われる前に、推測した事柄から、新たな情報へと発展させることがないために、推測することで能動的に情報収集することにはならないのである。



例D

読みの作業 作業の意図
「あくる朝の蝉」 井上ひさし  
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。
→「ふたり」が何をするか、どこに行ったかがこの先に書かれていると推測する。
 「ふたり」に関する情報を期待する。しかし、推測は行わない。
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、 頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて 改札口の番をしていた。
→終戦直後、いなか町
 
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。
→「ふたり」の内の一人が男である。
 「ぼく」から男であることは明らかである。この明らかな情報は受け入れるが、「ぼく」から年齢を推測したりする事はない。明示された情報のみを受け入れる。
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を
追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。
 
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。 
(6)弟は口を尖らせていた。
→口を尖らせた理由は何か疑問を持つ。
 構文的にブランクが発生するため、疑問を持つ。
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。  
(8)「思いきり息をしてごらんよ」  
(9)弟にぼくは言った。  
(10)「空気が馬くさいだろう。  
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」
→どこからか、生まれ故郷に帰ってきたことを認識する。
 どこからか生まれ故郷に戻ってきたとして、一体何処から戻ってきたのかその場所は限定されない。単に「どこからか」というその場所が存在することだけを想定する。
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。
→ボストンバッグから、長い滞在を推測する。
 
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」  
(14)「ぜんぜん」  
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。
→喩えられる様子が分からない。
 
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」
→談話描写から兄に反抗的な態度をとると解釈する。
→弟の年齢は、3〜5才ぐらいを想定していたが、
この談話から匂いが田舎の匂いだと判断できる年齢、つまりもう少し大きい子どもだと解釈する。
 このような発言は、関係がうまくいっているふたりの間でなされるものではない、という読み手の経験から、弟の態度が反抗的であると解釈する。
 さらに、この発言が3〜5歳児からはなされないと判断する。これも、読み手の経験に関わるもので、読み手によっては、(12)文から、ボストンバッグを運ぶことのできる年齢として、弟の年齢を想定する場合もある。しかし、この読み手には、ボストンバックという情報は、弟の年齢を決定するものではなかった。しかし、ここにきて、弟の年齢に関して想定していた情報にギャップが現れ、推測を修正することになる。
(17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。
→弟がこの町を出た理由を推測することはなかった。あえて、想定すれば、弟は田舎臭さがイヤで、出ていったと推測する。その結果、弟はこの町は好きではなかったと想定する。
 弟が町を出た理由は推測を求めるブランクとして、読み手の中には存在しなかったために、外的刺激から推測を求めた場合、その推測は一時的な埋め合わせになる。
(18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。 
(19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。
→弟と対照的に、兄は自分の生まれた町を誇りに思っているとし、ふたりの対立関係が成立する。そして、兄はこの町の良さを弟にも分からせようとしている、と解釈する。
 (16)文から(19)文までで、ふたりの感情の対立関係が成立する。それに伴い、この作品が、今後ふたりの対立を 解消していく方向に進むと想定してゆく。



 例Dでは、(11)文の読みのように、ブランクを感じ取りながらも、そのブランクを埋めるような推測は行わず、ただ、ブランクの存在を認めることで、次の読みへ進んでいく。しかし、ブランクの存在は感じ取っているので、ブランクを埋めるような情報が、テクストに明示的に現れれば、すぐさま読みとることは可能であろう。
 また、(17)文の読みのように、重要性を伴っていないブランクに対して推測するよう求められると、これまでの読みからの系統的な推測が行われない。重要性を伴ったブランクとして、読み手の中に保持されていなかったため、このブランクに対する推測のための情報が集められていないためであると考えられる。




例E


 次の例は、ほぼ能動的読みと受動的読みが混在し、両者の中間的な位置におくことができる読みの例である。  
読みの作業 作業の意図
「あくる朝の蝉」 井上ひさし
→井上ひさしの作品ということから、何か含みのある、まじめな作品だと推測する。 
 「含みがある」とは、テクストを生成するには、言語情報のみでは意味解釈できない、さまざまな読みの活動を強いられるものだと捉えている。
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。
→降りた乗客に対して、乗った乗客の情報を求める。が、語りの視点は、「ふたり」へ向けられていくことは、認識して、この先に「ふたり」に関する情報を期待する。
 語りが焦点を合わせる境界の外を、常に把握しようとする思考が働いている。作者名に対する推測において、「含みがある」と感じているため、語りの視点に惑わさないで、より広い視界を保とうとする意志が見受けられる。
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて改札口の番をしていた。
→明治か昭和初期、夏、人気のない、汚い駅  戦前、きたない駅とは、テクスト内
の情報から得たものではなく、テクスト外に抱く、個人的なコードによるイメージから来るものであろう。
 
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。
→「切符を二枚」から、「ぼく」が「ふたり」のうちの一人で、もう一人に対して、主導権を握っている立場にあると推測する。
 
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。
→描写の内容に対して、疑問を抱く。
→細かな描写から、強く田舎という印象を受ける。
 描写される場景を再現する過程において、読み手自身の現在では再現不能な箇所に、疑問を抱いている。つまり、再現不可能なものに対しては、不信感を抱くことになり、受け入れを拒む。
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。
→(4)より、「匂い」に対して、マイナスイメージを抱いていたため、「深々と吸い込」む行動に、疑問を憶える。また、その理由を、ぼくにとって懐かしい匂いであるため、と推測する。
 
(6)弟は口を尖らせていた。  
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。  
(8)「思いきり息をしてごらんよ」  
(9)弟にぼくは言った。  
(10)「空気が馬くさいだろう。 
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」
→ふたりは田舎に帰省している。弟にとっては、兄が弟に、ここが生まれた場所だと、教えていることから、初めて訪れる場所であると解釈する。
 「いなか」を、「生まれ故郷」という意味と、都会に対する「田舎」という意味との両方を混在させて解釈している。これは、読み手と書き手の間で異なる意味生産が行われているためだと考えられる。書き手が意味する内容が「いなか」という言葉によって、読み手に伝達されていないことになる。読み手の中では、生まれ故郷とは常に田舎であるという自明の真理として、認識されている。そのため、「ぼく」の発言は、「ぼくらの生まれ故郷は田舎である」ではなく、「この地がぼくらの生まれ故郷である」という解釈になる。
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。  
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」  
(14)「ぜんぜん」
→ぼくと弟の匂いに対する記憶の違いが、ふたりの年齢差を意識させることになる。
 ふたりの「匂い」に対する心情に注目するのではなく、「匂い」に対する心情の違いから、人物設定へと目を向ける。
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。
→孤児院にいたのだろうかという推測がすぐさま働く。
 
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」
→弟のことばからは、彼が生意気であるという印象を受けるものになる。
 
(17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。
→(15)の推測より、孤児院に入るため、この地を去ったと解釈する。
→「孤児院」ということから、親の状況を求める。 孤児院=ふたりは孤児である、とい う解釈にはつながっていない。あるいは、孤児であったとしても、親の死因に関する情報を求めていると思われる。
 (15)の推測はかなり、妥当性の高いものとして、捉えられている。そのため、すぐさま、弟がこの町を去った理由を、推測する思考へつながる。
(18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。  
(19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。 



 語り手は舞台場面の中のある部分に焦点をあて、語っていくのだが、例Eでは、(1)文の読みに見られるように、焦点化されたその境界外の情報を求めようとする。「含みがある」話であると、最初に想定していることから、このような言語外の情報を獲得していこうとする読みになると考えられる。その一方で、(4)文のような細かな描写文から、言語情報としてその情景を獲得することは、容易に行うことができない。従って、非言語情報と言語情報とを獲得し、関係づけていく、能動的な読みとしては成り立っていない。能動的な読みの姿勢を取りながらも、言語情報と非言語情報という異なるレベルの情報を共に扱わないで、一方に偏ってしまう受動的な読みの部分も持つ、中間的な読みとなっている。




4.考察結果




4.1.仮説の検証





 先に挙げた仮説を検証する。

<能動的読みの活動>
  1. 読みの前提にある人物設定の意欲→行動描写などから心理を読む。(登場人物はどんな性格なのか、どんな状況下にあるのかなど)
  2. ブランク(5W1Hのブランクを含む)の発生→ブランクを発見、その重要性を意識し、埋めていく。(主語が欠けていたり、理由が述べられていないなど)
  3. 現象文の連続→現象文に対する判断文を探す、または判断文に相当する意味づけを行う。(情景描写などが登場人物の心理を象徴するなど)
  4. 特異的情報の埋め込み→違和感を処理するために関係づける。(話題が突然変わる、また話題に沿わないことばが出てくるなど)
  5. ギャップ(既有の情報と新たな情報が一致しない)の発生→読みの方向を修正する、あるいは読み直す。(今までの読みに沿わない、登場人物の行動や事柄の発生が起こるなど)





1,読みの前提にある人物設定の意欲→行動描写などから心理を読む。(登場人物はどんな性格なのか、どんな状況下にあるのかなど) 

 「読みの前提にある」というのは、読み手が作品に取りかかる際に、登場人物に対して、どんな人物なのか情報を集めようとするが、この集め方や、人物設定をどこまで詳しく行うか、その程度といったものは、読み手の経験に大きく左右すると思われる。例えば、調査では第一文において、「ふたり」を人物と捉えなければ、つまり、情景描写の一部と捉えると、「ふたり」に対する情報収集の活動は行われにくい。従って、人物設定するにも、読み手は、どの登場人物に対して設定を行っていけばいいかを、判断し、選定された登場人物に対して、その人物に関する情報を集めようとする。また、第一文において、「ふたり」を情景の一部と捉えると、第二文に登場してくる「駅員」に人物設定の重要性を感じ、駅員が主人公になるかもしれないという読みを行うこともある。
 人物設定の行い方には、性別・年齢が優先的に設定されていく。例B(5)(6)文の読みのように、重要性を感じた登場人物に対して、その人物の心理面に関する情報を集めようとする。そのためには、人物の性別・年齢が大きく関わると判断され、優先的に設定されていくことになる。


2,ブランク(5W1Hのブランクを含む)の発生→ブランクを発見、その重要性を意識し、埋めていく。(主語が欠けていたり、理由が述べられていないなど)

 ブランクは情報が集まってくるほど、読み手に感じ取られやすくなる。つまり、何が分かっていて、何が分かっていないのか、がハッキリしてくるからである。例えば、第一文においては、場面設定に関するすべての情報がブランクになる。そのため、さまざまな内容のブランクが発生する。「ふたり」とは誰か、いつか、どこか、といったブランクが感じ取られる。すべてのブランクに等しく注目をおくことができないため、優先順位が高いブランクから、情報収集するようになる。そうすると、優先順位の低いブランクに対する情報は読み過ごされてしまう。ここで、より多くのブランクを保持していけば、結果的に、多くの情報を取り入れ、より細かく解釈することができ、能動的な読みへと成り立っていくことになる。
 それに対して、第六文の〈弟が口を尖らせた理由〉というブランクは、優先順位を付けるまでもなく、埋める必要があるブランクとして、すぐさま感じ取られやすいものである。というのは、構文的なブランク(5W1Hのブランク)であるため、重要性に関わらず、意識されやすいのである。
 そして、この構文的なブランクは、テクスト全体にわたって情報収集が行われていなくても、また、局部的にしか情報が持ち越されていなくても、解消できる場合が多い。「あくる朝の蝉」でも、すぐ第七文で〈弟が口を尖らせた理由〉が明らかにされており、構文的なブランクは、能動的な読みを行わなくても、すぐに解消できるテクストが多い、ということを読み手は経験から知っているのだ。
 このように考えれば、構文的なブランクは、読み手に重要性を感じ取られなくても、読み手に取り込まれることが確実である。従って、このようなブランクは、書き手の側からすれば、能動的な読みを行わない読み手に対しても、情報を取り込ませることのできる仕掛けになりうるものである。


3,現象文の連続→現象文に対する判断文を探す、または判断文に相当する意味づけを行う。(情景描写などが登場人物の心理を象徴するなど)

 第四文は、「匂い」に関する細かな描写がなされているが、能動的な読みを行う読み手は、この細かな描写文に、なんらかの書き手の意図があると感じ、その意味づけを行おうとする。それに対して、受動的な読みを行う読み手は、読み飛ばして、情報を切り捨てる。この差は、現象文の連続とは、書き手が意図的に仕組んだもので、何かの意味づけを行う必要があると、読み手が経験的に感じるものだからだろう。
 では、現象文の連続から、読み手が意味づけを行う過程を考えてみる。これは語りの速度というものが関係してくると思われる。語りは、ある瞬間の事態を、多くの文章量を費やして語るときもあれば、長期間にわたる出来事を、わずかな語句で語るときもある。語りの速度が変化しても、読み手の作品世界を再現する速度は変化せず、一定に行われる。そのため、語りの速度が遅くなったとき、読み手の側は、作品世界を再現する時間以外の時間を得ることができる。その余分の時間で、読み手は、細かな情報への意味づけを行うのだ。その反対に、語りの速度が速いときは、その出来事の把握に、すべての時間を費やし、意味づけを行うには、読み手自身の読みの活動を中断して、意味づけのための時間を設けることになるだろう。
 しかし、受動的な読みを行う読み手は、このような語りの速度が遅いとき、その情報を無視し、次に読み進めることで、時間を調整していると考えられる。作品世界を再現する時間そのものを省いて、無駄な情報として、処理していく。このような受動的読みを行う読み手に、敢えて、その語られた世界を再現してもらおうとすると、例Eの(4)文の読みのように、何度も読み返して、読みの速度を語りの速度と同じにしようすることになるのではないか。そう考えれば、語りの速度に応じて、自分の読みの速度を変えなければならない、受動的な読みは、それだけ読み手の負担を大きくするものであると言える。


4,特異的情報の埋め込み→違和感を処理するために関係づける。(話題が突然変わる、また話題に沿わないことばが出てくるなど)

 特異情報は、語りへの信頼度と大きく関係する。「あくる朝の蝉」では、第十五文の「孤児院のカナダ人修道士」を喩えに用いる箇所があるが、これが特異情報の埋め込みという仕掛けになる。特異情報によって信頼度が揺らぐと、これを安定させるために、何らかの関係付けを行う。受動的な読みに位置付けられる読みから、比喩表現として用いられているという理由で、特異情報として感じ取られない読みが見られた。これは、比喩表現であれば、これまでの文脈を無視して、特異的な言葉を用いることができ、「孤児院のカナダ人修道士がやるよう」な「肩の竦め方」は、作品世界の中では、特異な喩えではないかもしれないと解釈されるからである。
 しかし、この喩えは、読み手が生きる世界では、特異的なものであり、この違和感を解消するには、別の関係付けが必要である。そこで、「何らかの様子で肩を竦めた」という動作が行われたことのみを確認するだけにとどめてしまう場合がある。この読みも結局は、意味づけという仕事を避けて、読み過ごしただけで、受動的な読みに位置付けられるものになる。しかし、能動的読みでは、作品世界が映像的に再現されているため、どんな具合に「肩を竦めたのか」その様子が想定できないために、やはり特異的な情報として違和感を感じる。この違和感を解消するには、「孤児院のカナダ人修道士」と登場人物との関係を意味づけなければならず、「ふたりは孤児院にいたのだろうか」(例E)という推測につながる。そして、語りとの信頼感を安定させていく。
 この「あくる朝の蝉」では、比喩表現という仕掛けのために、より複雑な違和感の処理がなされているが、特異情報が喩えではなくて、単純に叙述に現れれば、最終段階の意味づけが行われることになるであろう。意味づけが行わなければ、違和感を残したまま、ブランクとして、その解消が引き延ばされることになる。


5,ギャップ(既有の情報と新たな情報が一致しない)の発生→読みの方向を修正する、あるいは読み直す。(今までの読みに沿わない、登場人物の行動や事柄の発生が起こるなど)

 ギャップは、与えられた情報のみを受け取るような読みにおいては、生じにくい。それは、書き手が意図的に仕組む以外に、これまでの情報に沿わない情報を与えるテクストは成立しないからである。ではどんな場合に、ギャップは起こるかというと、確信度の低い推測を発展させたり、叙述上の情報を取り違えて読んだりする場合に、ギャップは発展すると言える。確信度の低い推測を活発に行ってしまう読みが、ギャップを生じさせ、結果的に、読みの修正を強いられるような受動的読みになってしまう。
 例A、例Bをみると、確信度の低い推測は、さらに細かい推測に発展されることはなく、従って、ギャップを読み手が感じることもない。
 例Cのように、読み手が一方的に、確信度の低い推測を、確かな推測のように膨らませてしまうと、その推測に沿わない情報がテクストに現れたときに、ギャップを感じることになる(例C(12)(16)文)。そしてこのギャップを解消するために、フィードバックし、読みを修正、または再確認していくことになる。
 受動的読みの中でも、ただ与えられた情報だけを受け取るだけの、例Dのような読みでは、ギャップは感じ取られにくい。その一方で同じ受動的読みであっても、例Cのような積極的な推測活動が行われる読みでは、結果的に、荒い読みになってしまい、慎重さを欠く読みになってしまう。
 それに対して、能動的読みでは、確信度の低い推測は、それ以上発展させずに、留めておくような読みが行われ、積極的な推測活動が、慎重に、丁寧に行われているということができる。


4.2.能動的読みが生み出される実態





 読み手のファーブラに対する予想活動が活発であれば、フィードバックして推測の確認、修正が行われやすく、より複雑に読みが行われる。「複雑に」というのは、読みがあらゆる方向へ行われる可能性を持ち、そのため、読みがさまざまな刺激によりさまざまに発展する可能性を持つということをさす。この場合、同じテクストであっても、くり返された読みの姿は変容しうるといえる。繰り返し読むことで、解釈を深めることができるのも、この変容があるから、深められると考えられる。それに対して、読み手の予想活動が活発でなければ、刺激を受けることも少なく、同じパターンの読みを行う可能性が高い。読みの姿が読みの行われる場ごとに変容することは少ないと考えられる。
 以上の予想活動は、読み手の主体性に関わるものであるため、テクストの仕掛けにより、予想活動が促されるとしても、結局は、読み手の判断を待つことになる。

 また、ブランクや現象文の連続の発生は、テクストの仕掛けにより起こる場合が多いが(予想活動はテクストによる仕掛けから促されることは少ないが)、結果的に読み手の主体性を必要とする。読み手がブランクの解消、意味づけを行わない限り、その仕掛けは何の力も持たない。それに対して、特異的情報やギャップによる違和感は、読み手の主体性が強すぎると、感じられやすく、(読み手は、テクストに向かっている限り、ある程度の主体性を持ち、テクストに取り組んでいるわけだが、)読み手はその違和感を解消しようと、関係付けを行う。

 書き手がモデル読者を、主体性の強い読者と想定すれば、予想活動に頼るテクストになり、読み手に求められる読みも、予想活動によってテクスト生産する能動的な読みとなる。そして、主体性の弱い読み手は、予想活動に頼るテクストにもかかわらず、ただ与えられた情報を捉えるだけになり、予想活動による推測の確認、修正といった活動が少なく、受動的な読みになる。
 書き手がモデル読者を主体性の弱い読者と想定すれば、ギャップを生み、読みを修正していけるような仕掛けを、テクストに仕掛けることで、読み手はテクストを現実化できる。言い換えると、読み手の読みが、書き手の伝えようとすることとは、明らかに異なる方向へ意味解釈されていたとしても、テクストの中にその読みが修正できるようなギャップが生じれば、その読みは書き手の伝えるメッセージを受け取ることができる。

 テクストに対して、意味解釈を行っていく、その最初の段階は、白紙の上に、ストーリーの枠を形成することである。この最初の段階で、枠をどのような形にするかは、ジャンルの問題や、読み手個人の経験も関わってくる。そしてこの枠の作り方が、受動的か、能動的かによって、読み自体も受動的なものか、能動的なものかといった違いを帯びてくると思う。
 能動的な読みにおいては、白紙の状態に枠を積極的に作り上げ、どこから枠を細部までつくりあげるか、その取りかかる場所を決定しようとする。その場所をどこに決定するかということが、どこにブランクを感じる取るかという活動になる。
 それに対して、受動的な読みにおいては、白紙の上に枠を作るという活動が、明示された情報のみで行なわれる。したがって、その枠にブランクを感じ取る(作る)という活動は、冒頭部のような情報量が少ない時点では、行われないにくい。明示的に与えられる情報によって、枠が或る程度完成して、ブランク自体が自ら浮かび上がってくる程度の情報が得られてから、ブランクを解消していくことになる。
 このように、意味解釈していく最初の段階においてすでに、読みの姿はさまざまに分化している。

 読み手が行う読みは、能動的読みや受動的読みにしろ、テクストに向かっている限り、主体的なものであるが、その程度により、つまり、能動的か受動的かで意味解釈の結果、現実化されるテクストには大きな違いが生じる。そして能動的か受動的かは、読み手がどれだけ多くの能動的読みの活動を、行うことができるかによる。それは経験によるところが大きいが、能動的読みの活動方法を知ることで、その経験を積み上げていくことができると考える。意識的にその活動を知れば、より能動的読みの経験を積むことにつながると考える。



5.おわりに




 読むということは、読みが行われる場の、読み手を取り巻くさまざまな環境が影響して、その姿を変えていく。同じ読みは厳密にはあり得ない、その場限りの行為である。そのような性質を持つ〈読み〉の姿を明らかにしていこうとする試みは、不可能といわざるを得ない。しかし、現実に私たちはこの〈読み〉を学習して、行っている。先天的に備わった能力ではない。私たちは、手探りながらに、手本となるような理想的な〈読み〉から、読むという行為を学び取っているのだ。この学習活動がある限り、教育者の立場からは、理想的な〈読み〉を明確な形にして、提示していかなければならない。不可能だといって諦めるわけにはいかない。
 本論で、読むということの実態が明らかになったとは言えないが、この実態を明らかにする必要性を深く感じることとなった。残された課題は多く、目指すところは遠い先のことであるが、ここで、本論の考察での反省と今後の課題にふれておく。

 まず、調査方法について、調査用紙の改善である。今回の調査では、読みのフィードバックの形が調査できなかった。フィードバックは必ず行われているという予想があったものの、それを調べることができなかった。読み手が、無意識に瞬時に行う活動であるため、それを明確にするためには、読み手に意識化してもらわなければならない。また、フィードバックという時間的な次元を、物理的な平面の用紙の上に、どう表すことができるか考えていかなければならない。
 また、今回の被調査者は、年齢的には、同世代の人に協力してもらった。これを、異なる世代の人にも、同時に行うことで、文化コードにあたる読み手の背景にある要素をも、扱うことができるかもしれないと考える。そのためには、膨大な時間がかかるわけだが。
 そのほか、用語の問題がある。読むという行為を説明するための用語を、確立しなければならない。概念は共通していても、用語が確立されていない限り、誰もが考えていることであっても、それを伝えることはできない。私自身が考察する中でも、考えが混乱してしまい、用語が揺らいでしまっていた。どこまで細かく用語を確立するかということにも、疑問を感じる。細かく概念を構成しなくとも、十分説明できる場合もあるだろうし、理論的に説明するのではなく、実態を明らかにするための用語を確立していかなければならない。

 そのほか、残された課題は多いが、読むということを考察することで、普段は自分自身の読みしか見ることができなかったのだが、自分とは異なる読みを見つめる機会を得たことを嬉しく思う。読書が好きだとは、決して言えない私だが、読むということのおもしろさは、十分味わうことができた。






 最後に、修士論文を書くにあたって、熱心に指導して下さった方々へ感謝いたします。今年は、例年になく国語教育講座全体の修論中間発表を開いていただき、各専門の先生方に、指導していただく機会を得ました。異なる観点からのご指摘を受け、とてもいい刺激になったこと感謝いたします。また、半年間、授業で丁寧に指導していただいた田中俊弥先生、考察の方向すらままならない時に、的確な指導を熱心にして下さった早川勝廣先生、長年にわたり、変わらぬご指導を続けて下さった野浪正隆先生に、感謝の意を表します。そして、調査に協力して下さった方々にも、お礼申し上げます。

1998年1月30日  北尾友美  


 

脚注



  •  *1 『記号論のたのしみ』R.スコールズ 著 富山太佳央 訳 1985.12 岩波書店 注1に戻る
  •  *2 『記号論のたのしみ』R.スコールズ 著 富山太佳央 訳 1985.12 岩波書店 注2に戻る
  •  *3 『記号論のたのしみ』R.スコールズ 著 富山太佳央 訳 1985.12 岩波書店 注3に戻る
  •  *4 『ガイドブック現代文学理論』 ラマーン・セルデン 著 栗原裕 訳 1989.7 大修館書店 注4に戻る
  •  *5 『ガイドブック現代文学理論』 ラマーン・セルデン 著 栗原裕 訳 1989.7 大修館書店 注5に戻る
  •  *6 『物語における読者』 ウンベルト・エーコ 著 篠原資明 訳 1993.9 青土社 注6に戻る
  •  *7 「空白箇所の機能変換」 鍛冶哲郎 『文学の方法』川本皓嗣,小林康夫 編 1996.4 東京大学出版会 注7に戻る
  •  *8 『行為としての読書――美的作用の理論――』W.イーザー 著 轡田収 訳 1982.3 岩波書店 注8に戻る 
  •  *9 『ガイドブック現代文学理論』 ラマーン・セルデン 著 栗原裕 訳 1989.7 大修館書店 注9に戻る
  •  *10 『物語における読者』 ウンベルト・エーコ 著 篠原資明 訳 1993.9 青土社 注10に戻る
  •  *11 『読むということ――テクストと読書の理論から――』和田敦彦 1997.10 ひつじ書房 注11に戻る
  •  *12 『行為としての読書――美的作用の理論――』W.イーザー 著 轡田収 訳 1982.3 岩波書店 注12に戻る
  •  *13 『読むということ――テクストと読書の理論から――』和田敦彦 1997.10 ひつじ書房 注13に戻る
  •  *14 『物語における読者』 ウンベルト・エーコ 著 篠原資明 訳 1993.9 青土社 注14に戻る
  •  *15 『物語における読者』 ウンベルト・エーコ 著 篠原資明 訳 1993.9 青土社 注15に戻る
  •  *16 「書き出しと結びの性格」 林巨樹 『日本語のレトリック』講座日本語の表現5 中村明 編 1983.5 筑摩書房 注16に戻る
  •  *17 「文章表現の機構」 時枝誠記 『文章研究序説』明治書院 著作集第三巻 注17に戻る





    参考文献一覧



    ○「日本語の常識Q&A」中村明 他
        『國文學解釈と教材の研究』第39巻14号1994年12月

    ○「書き出しと結びの性格」林巨樹
        『日本語のレトリック』講座日本語の表現5 中村明 編 1983.5 筑摩書房

    ○『読みのポリティク』文学テクスト入門 岩本一 1993.9 雄山閣出版

    ○「「空白箇所」の機能変換」鍛冶哲郎
    ○「「わたし」と語り手」斉藤文子
        『文学の方法』川本皓嗣,小林康夫 編 1996.4 東京大学出版会

    ○『記号論のたのしみ』R・スコールズ 著 富山太佳夫 訳 1985.12 岩波書店

    ○『行為としての読書──美的作用の理論──』W・イーザー 著 
         轡田収 訳 1982.3 岩波書店

    ○『読むということ──テクストと読書の理論から──』和田敦彦 1997.10 ひつじ書房

    ○『物語における読者』ウンベルト・エーコ 著 篠原資明 訳 1993.9 青土社

    ○『ガイドブック現代文学理論』ラマーン・セルデン 著
         栗原裕 訳 1989.7 大修館書店

    ○『近代読者論』外山滋比古 1969.1 みすず書房

    ○『レトリックの記号論』佐藤信夫 1993.11 講談社学術文庫

    ○『現代言語論』立川健二,山田広昭 1990.6 新曜社

    ○『テクスト言語学入門』Robert de Beaugrande,Wolfgang Dressler著 
         池上嘉彦,三宮郁子 他編 1984.10 紀伊國屋書店

    ○『文章論総説』永野賢 1986.5 朝倉書店

    ○「特集関連性理論の可能性」『言語』1995年4月 vol.24, No.4 (281)

    ○「読みのプロセスを「見る」」三宅なほみ, 野田耕平『言語』1998年2月 vol.27,No.2(317)